カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-12-19 入門講座 23 クリスマス

英神父 入門講座 23 クリスマス

 今日はクリスマスの意味を中心に話をしたいと思います。すっかりクリスマスは日本の行事として定着して日本人の習慣に入っているといえると思います。 本当はクリスマス前はしんみりしてクリスマスが来てからお祝いします。日本はクリスマスが来たら片付けてしまうからタイミング的にはずれています。ただイエス様の誕生が起源というお祭りはいいのではないかと思います。ルカ2章1節 「 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」「皇帝アウグストゥスから」当時のローマ皇帝はアウグストゥスだった。ルカによる福音書というのは、ローマ帝国の人々を対象にして書かれています。ユダヤ人のためではなくて異邦人のためにイエス様がどういう人かを伝えるために書かれました。だからローマ帝国だということを意識してローマ帝国の人のために書いたものです。だから皇帝の名前が出てきます。当時は帝政ローマが確立した時です。アウグストゥス皇帝は割と名君だった方です。今に残っているものは、8月のことを August といい、アウグストゥスが自分の名前をカレンダーに入れたんです。もう一人入れたのが Julius Caesarで7月 July 、ゆりという意味です。自分の名前を入れた、それぐらい権力があったということです。9月が Septemberこれは7月という意味です。Octoberは8月という意味です。12月は December で10月という意味です。二人が勝手に入れたから二ヶ月ずれて呼び方が定着してしまいました。それくらい大きな権力を持っていたといえます。その時それぞれ出身の町で税金のため住民登録を行った。ヨセフ様はダビデの家の出なのでベツレヘム出身なんです。だからベツレヘムへ登録しなければなりません。広大なローマ帝国の人々全員が住民登録しなければならない、それができたわけだから権力があったしるしであると言えるでしょう。皇帝の命令一つで帝国にいた人々が全員移動させられた。今とは違ったわけで 税金のためで住民登録をマリアも一緒にしなければならなかった。身重だけれども出かけなければならなかった。 ベツレヘムの街へ行ったと。エルサレムより南の方にあるのでナザレから一週間ぐらいかかるようなところです。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと」そろそろ産まれるという動きたくない時期です。でも権力者の意向で行かなければならない。「ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」飼い葉桶というのは家畜が餌を食べるためのものです。つまり彼らが泊まる場所がなかったとも言えるし、泊まる場所がないほど貧しかったといえます。当時はベツレヘムそのものが小さな町でしたでしょうし、住民登録で多くの人が移動していたでしょうし、ヨセフ様とマリア様がお金持ちだったらちゃんとした所に泊まれたでしょう。そういう場所がなかったので仕方なかった。馬小屋といいますが、 ロバや牛や羊はいましたけれど馬はいなかったと思う。そして小屋ではなかった、洞窟です。家畜を住まわせる洞窟に仕方なしに子供を産んで飼い葉桶に寝かせた。ここは大きな対比があって強大なローマ帝国の皇帝と強大な勢力を持っていた。パレスチナ地方までも地中海沿岸を包むような、それに対して生まれたてのイエス様もマリア様もヨセフ様も本当に小さな存在であった。救い主は馬小屋で生まれるんですから、本当はローマ皇帝の息子とか権力のあるところに生まれればよかったのに、ものすごい貧しいところに辺境の地で生まれたことに、ご降誕の神秘があると言えると思います。それを受肉と言いますが、本当は神様が人間になるという しるしとして、いわば馬小屋の中でお生まれになった。ローマ皇帝が人々を動かしているように見えて、結局は神様が動かしている。旧約聖書の預言で言えば救い主はベツレヘムで生まれなければならなかったからです。 ベツレヘムで生まれるべくして神様が 皇帝も使ってマリア様とヨセフ様をベツレヘムに向かわせたかもしれない。だからヨセフ様とマリア様は皇帝に比べたら全く権力があるわけですが、皇帝の力を語っているように見えてそれ以上に神の力が働いているのを表しています。 その時の誕生のシーンですけれども、8節「 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」この馬小屋で生まれた所に表敬訪問と言うか お祝いに呼ばれたのが羊飼いたちでした。とてもシンボル的な感じです。王が生まれるとしたら、皇太子が生まれるならば、最高裁裁判長長官とか主相とか立派な人が次から次にお祝いに駆けつけるわけです。わたしたちは記帳するだけで、よっぽど地位の高い人がお祝いに行けるわけです。本当の王である救い主イエス様が生まれた時に、お祝いに呼ばれたのが羊飼いたちだけというのは神様のなさったことだなと思います。 羊飼いというのは社会的地位がとても低い。羊飼いと言っても雇われ羊飼いだと思います。羊を扱っているだけだと思います。なぜかと言うと律法が守れないから地位が低いんです。つまり真面目なユダヤ人たちは食事の時毎回手を洗わなければいけないんですが、野宿しているから手は洗えません。そういうところから律法を守れないような身分の低い人貧しい人とされました。そういう人をわざわざ選んでお祝いに招待したというところに、神様が貧しさとか謙遜さや小ささを大切にされているかということがよくあらわれていると思います。わざと羊飼いを呼んでいるんだから、もっと有名な人を呼べばいいのに そうではない人を選んだところに、神様のやり方があると思います。初めてイスラエルへいった頃は、町全体が貧しいんです。エルサレムとかはイスラエル国だからお店にしてもアメリカと何も変わらない。でもベツレヘムは壁の向こうのパレスチナ自治区の方で、走っている車も違うし置いてあるものも全く違います。つまりベツレヘムのほうは第三世界なんです。エルサレムとかは第一世界の方です。初めてベツレヘムに行った時はこの感覚が分かって、イエス様が貧しい中で生まれたのは、二千年後のそこでもわかるくらい貧しさを大切にされている。神様が人間になったということはまさしく貧しさを身にまとった。神様は全知全能でなんでもできる方がわざと人間の弱さを身にまとうということです。しかも赤ちゃんになってです。それが神様のへりくだり。神様が人間になるということは、大きくなるのではなくて、小さくなる謙遜さと、根本的には人間に対する神の愛があらわれています。 「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」これは驚きます。野原ですから今みたいに電気とかは全くない。明らかにこの日は晴れでした。東方の三博士が星を見てくるから、曇りだったら星が見れないです。だから晴れてたんです。晴れてたということは特別なことではなくて満天の星の輝きがあったと思います。その中でただの星と月の輝きだけではない特別の主の光が照らした。超自然的な感じだったと思います。 だから天使がいるんです。 「恐れるな。」神が現れる時はよくおっしゃいます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と伝えるのです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」救い主の印は飼い葉桶で寝ている赤ちゃんだということですからこの世的なしるしだったらともかく、馬小屋で寝ている赤ちゃんが救いのしるしである。受肉の神秘というのは小ささとか貧しさとかそういうものに神様が宿る。神の愛と神の謙遜さのしるしとして。羊飼いたちも言われても半信半疑でしょうが、そこに行ってみれば赤ちゃんが寝ていてマリア様とヨセフ様が馬小屋の中にいた。それでも半信半疑だったように思います。13節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」天の大軍が神を賛美する 歌が響いたということです。14節は今のミサの栄光の賛歌の冒頭になっています。 真っ暗闇で羊飼いたちだけのために神様のスペシャルコンサートです。天に大群が現れて 歌を歌った。また羊飼いという小さな存在の中に神様の莫大なお恵みが記された。 ローマ帝国の権威と神様との権威の対比も入っています。「いと高きところには栄光、神にあれ、」栄光は神様にある。当時の人々はローマ帝国と皇帝に栄光があると思っていた。莫大な権力でしたから。神にこそ本当の栄光があるとここでは語っているわけです。 「地には平和、御心に適う人にあれ。」アウグストゥス皇帝の功績はローマの平和を勝ち得た。圧倒的な軍事力であの辺りを全部植民地にして、しかも軍事力による平和をうちたてた。でもここに平和がない。どこに本当の平和があるかと言ったら 御心に適う人に平和があると語っています。いわゆるレギオンと呼ばれる一師団六千人の部隊が数十師団ぐらいあってパレスチナ辺りではシリアが総本部があった。パレスチナの方にもピラトという総督府がいましたけれどシリアの総督府が一番上で、東方を敵対していました。それがバラバラになって百人隊長がいて百人の兵隊がそれぞれの町にいました。 それが地中海全体を支配するぐらい膨大な軍事力を打ち立てるぐらいです。それは神の御心にかなう平和ではなくて本当の平和は神の御心にかなうことによってこそもたらされる平和。イエス様のもたらした平和はそちら側であるということです。 「この天使に天の大軍が加わり」これはレギオンのことであって本当の大群は天にあって地上的な大群は大したことが無い。パックス・ロマーネにしろローマのレギオンにしろ、強かったですけれども何も全て滅びてしまって、今ではカレンダーに名前が残っているだけです。 でもこちらの平和の方が神様の恵みの中で生きるならばその平和は与えられる。受肉の神秘全てこの世的なものに安定を求めるのではなくて、むしろ貧しさや小さなさの中にこそ神との繋がりで本当のわたしたちに恵みと平和が与えられる。だから神様は羊飼いたちだけにそれを示されたという気がします。 「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言って ベツレヘムはちょっと離れたところです。羊飼いたちはちょっと離れた田舎のところにあるんですが、そこまで彼らは羊を連れて歩いて行ったんだと思います。 「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」聞いてもなかなか信じられないと思いますが「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」だけで終わってしまったでしょうけれど「  しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」神様の働きはどういうものなのか、みんなこの辺りにいますからローマ皇帝もこの辺りにいないし、こんな世界があるとは分からなかったですが、貧しさの中にこそ神様の栄光があると、その世界をみい出せなかった。マリア様はそれを思い巡らしていた。わたしたちも貧しさや小ささとか弱さ、そういうものの中にある神様の輝き、それをわたしたちは見い出せる恵みと言うか、それは受肉の神秘によってわたしたちに与えられていると言えると思います。マタイ1章18節「 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」マタイの福音書は誰に向かって書いたかと言うとユダヤ人に向かって書いています。ルカが異邦人に向かって書いてあって、マタイはユダヤ人向けに書いてあります。 だから1章1節から家系のことについて書いてあります。だから誰が祖先でというのはユダヤ人 だから興味があんです。ユダヤ人にとってはほとんど馴染みの名前です。夫ヨセフはダビデの子孫である。だからベツレヘムへ行かなければならなかった。二人が一緒になる前に母マリアの方が聖霊によって身ごもっていることが明らかになった 。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」正しい人といった場合に、律法を杓子定規に守っていた人というわけではないと思います。神の御旨を求めていく、そういう意味で正しい人だったと思います。 相当悩んだと思います。 急に言われて信じられないと思います。自分と関係ないところで婚約者のお腹がどんどん大きくなってくる。ヨセフ様が心の狭い方だったら、律法通りに裁かれたら、マリア様は石打の刑です。つまり姦淫の罪です。 聖霊で身ごもったと誰も信じないからです。ヨセフ様はどうしたらいいかわからず彼なりに考えて「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」人間的に考えたらこれが最善だと思います。「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。』」ヨセフ様は主よ、どうすればいいですかと祈り求めていたし、自分でも相当考えられていた。だから夢の中で天使が現れてこの妻を迎え入れろというわけです。 迎え入れたこの気持ちはマリア様が、 我になれかし、 お言葉通りその身になるようにと迎え入れた。相当の信仰だったと思います。マリア様の信仰とヨセフ様の両方の信仰があって誕生したということです。 二人の信仰の受け入れがすごかったと思います。 「 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」マタイにはこれが度々出てくるんです。 ユダヤ人相手なので 旧約聖書の預言が成就するということは相当大事なことです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。」イザヤ書7章14節です。このように預言されている以上、預言が成就するという事がメシアとして大切なポイントになるわけで 「その名はインマヌエル」イエス様の別の名前です。 「神は我々と共におられる」この名前は何かと言ったら神様が天にいるだけではなしに人間となった。つまり我々と共にいる、受肉の神秘を名前が語っていると言えるのではないかと思います。こういう問題の時に周りは大騒ぎだったと思います。誰も聖霊で身ごもったと思っていないわけですから、ナザレの村は大騒ぎになったと思います。 それでもマリア様とヨセフ様は気にせず信仰を持って、神様が地上に生まれるのを手助けをされた。神様が人間になるという神秘は信仰で受け止めるしかありません。ヨセフ様とマリア様の二人の信仰の恵みの中でこの神秘が成り立ったと思います。 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」』そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」ルカでは羊飼いなんですけれども、マタイの福音書では占星術の東方の三博士です。マタイはユダヤ人相手に書いています。でも訪問したのは異邦人です。そこでも神様の心が描かれていると思います。こちらの方はクリスマスとは違う主の公現のお祝いといいます。誰に公に現れるかと言ったら異邦人、ユダヤ人じゃない人々に救い主は現れた。公現のお祝いということで伝統的には1月6日にお祝いすることになっています。ギリシャ正教会とロシア正教会はむしろクリスマスよりも公現のお祝いの方を大きくお祝いする習慣があったわけですけれども、12月25日がルカの方のお祝い日という感じで、マタイの方のお祝いは1月6日の主の公現のという形です。 二回お祝いする習慣になっているわけです。 三人だけとは書いていませんが、よく星を見て来たなと思います。当時の科学はそんなに発展していなかったんでしょうが、星を読むというのは学者の仕事だったんだと思います。そこにメシヤが生まれたことを読んで、わざわざ遠くへ行った。羊飼いならばすぐそばだけれども、三博士はとても離れていてしかも星を見てそうだと分かったというのはどんなに占星術が発達していたのかということです。ついでにこの博士というのは占星術の学者でギリシャ語でマギとかマゴイとかいうんですが、それが今のマジックとかマジシャンをする人という意味になります。当時は最高の科学者だったと思います。東の方からというのは ユダヤ人から見たら異邦の地、異邦の文化。エルサレムの人々は誰も気がつかないのに、この三人だけが気がついた。キャラバンをくんできたんです。通訳を連れてきて相当おおがかりだと思います。 贈り物を持ってきたらんだから信仰のあり方は大したもんだと思います。それで彼らがどこに行ったかと言うと、これが間違えたんです。 エルサレムの宮殿のヘロデ王。ルカの方はローマ帝国なんですが、マタイの方はヘロデ王の所に行って、構図は全く同じ形です。王が生まれたんだから絶対宮殿だと信じきっていたんです。だからヘロデ大王の所に行って王子が生まれましたかと聞いたら全然違ったので驚き、エルサレムの人々の方が不安になった。キャラバンを組んで外人さんがたくさん来て、王が生まれましたかときたんだからみんな驚いたと思います。ちなみにヘロデ大王というんですが、政治家としてはすごく優秀でした。ローマ帝国の支配下にありながら、自分たちの独立を勝ち得て行くのは、相当政治的手腕がいる。 小さな国の独裁者というのは難しいんです。自分の国に力がないから帝国みたいな相手とどうやってやっていくか。外交術も相当なものがあったわけです。ヘロデ大王はイドマヤ人と言って異邦人です。彼は政治家としての才能はありました。独立国家として守ったから、今もユダヤ人から評価されています。しかもマサダの要塞とか建築マニアだったんです。だからエルサレムの神殿を立て直したのもヘロデ大王です。 それだけの軍事力と財力があったからできたんです。王としては相当な人物であったろうと思われます。アウグストゥス皇帝も相当でしたが、ヘロデ大王も相当でした。ヘロデ大王ともうまく付き合うことができたし、バランスをとってできた。突然王が生まれたかと言われた時にヘロデ大王は、心の底から驚いたと思います。ヘロデ大王は軍事的とか政治的とかは抜群でしたが、心が病んでいました。自分の地位を狙うものには徹底的に排除しました。自分の子供を殺してるし、奥さん殺してるし、おじさん殺してるし、家族であっても自分の地位を脅かすものは次から次へと殺しました。 アウグストゥス皇帝はあまりに呆れてヘロデの息子に生まれるより豚の息子に生まれる方が安全だと言ったぐらいでした。誰かに訴えられたらおしまいでした。つまり彼の地位を狙っている人はすぐ殺して終わりになってしまう恐怖政治ではありました。ローマ帝国に比べたら小さい国だったが、それでもマリア様はヨセフ様に比べたら全然違う、権力を誇っていました。 「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。』」どこで生まれるかと聞きました。 「『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。』」だからイエス様はベツレヘムで生まれなければなりませんでした。だからマリア様とヨセフ様はベツレヘムに行かなければなりませんでした。ついでにミカ5章1節では 「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」と書いてあるんです。でもマタイは「小さないものではない」と書き換えています。だから現代の学術論文では通らないと思います。引用の仕方は間違えています。しかもひっくり返して間違えている。でもこの図から言ったらその通りで、 つまりベツレヘムというのは田舎の田舎で小さな所です。でも救い主が生まれたということは神の恵みの世界から考えたら小さなものではないということです。 それは偉大なことで、だからあるともないとも言える。そして占星術の学者も言いくるめるわけです。分かったら教えてくれてと、自分も拝みに行くから。 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると」これが1月6日だとしたらちょっとベツレヘムに滞在している。 イエス様とマリア様とヨセフ様は 何日か滞在された。彼らはひれ伏して幼子を「家に入ってみると」洞窟だったと思いますが、 「幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」よく捧げたと思います。庶民の所にいてこの子が本当に 王であるという証拠もないのに 博士たちもよく拝んだ。よっぽど確信がなければできなかったと思われます。逆にこの三人はこの恵みの世界に目が開かれていると思います。だからシメオンみたいに分かったかもしれない。 「黄金、乳香、没薬を贈り物」この三人は相当お金持ちだったかもしれない。黄金は王のしるし。乳香はお香で焚くんです。だからこれは神のしるしです。没薬というのは亡くなった遺体に塗るものです。だから十字架、イエス様の死のしるしです。これを三つの贈り物を捧げた。この時のマリア様とヨセフ様は驚いたと思います。見たこともない黄金と乳香と没薬で、驚いたと思われます。羊飼いもそうですが、この三人は大人のイエス様に会わずこれで終わりです。でもこれが彼らの生き方に決定的に影響を与えたと思います。そして12節 「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」ここで終わるかと思ったら「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」その当時のローマ帝国とは対立していないんですけれども、初代教会はローマ帝国から迫害にあいました。 この場合はヘロデ大王が権力を持って亡き者にする。自分の息子さえ殺すぐらいなんだから、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子を殺すのは何でもなかった。良心の呵責無しでできたと思います。しかもベツレヘムとエルサレムは近いんです。宮殿から6 km ぐらいです。 「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」ヨセフ様も覚悟が決まって迷いはありません。「 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」間一髪でした。夜明けまでいたら 殺されていたかもしれません。まさしく着の身着のままエジプトへ逃げなければならない。社会的な権力があるものが攻撃する力が働いてくる。この時はまったく無力なので逃げるしかありませんでした。 そしてエジプトに滞在した。イエス様の誕生からすでに十字架の苦しみと言うかこの世の対決みたいなものが入っていることになるわけです。エジプトになぜ行ったのか。これも旧約聖書の預言の成就に繋がるということはあります。 「ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』」これはホセアの預言のことなんですけれども イスラエルの民は一度イスラエルに逃げています。エジプトから脱出してもう一度戻った。だから旧約聖書の救いの実現を体験したというのもあるでしょう。マリア様とヨセフ様は大変な人生だったと思います。今で言う難民だったと思います。 権力者から逃げる大変なことだったと思います。でも贈り物があったから助かったんです。この黄金と乳香とかがでとりあえず住むところとか。エジプトにはユダヤ人コミュニティがあったのでそこに行ったのかもしれないけれども、ヘロデ大王の刺客とかがそこまで行っていたかもしれない。そうしたらユダヤ人コミュニティにいれなかったかもしれない。エジプトまで逃げたということはヘロデ大王の管轄ではなかったということです。エジプトはエジプトの国ですから、ヘロデ大王が干渉できるところではありませんでした。マリア様とヨセフ様は帰れると思っていたのに突然難民になって全てを投げ出して逃げなくてはなりませんでした。背負っていた苦難というのも大変なものがあったんであろうと思います。そして一緒に長屋暮らしのようなこともしていて、幸いなことにヨセフ様は大工でしたから、言葉ができなくても仕事ができたんです。だからある程度稼ぐことはできたんだと思います。それでも楽なものではなかったと思います。 大人のイエス様はなぜあんなに貧しい人や罪人や弱い人に優しいのか。もともとの性格はあるでしょうが、個人的な意見ですが、エジプトで貧しい生活をされていたから。ヨセフ様もマリア様もその日のお金がなかったりとか、隣の人がお金がないとか。それを助け合ったりする中で。親戚とかいるからナザレの方が安定していたと思いますが、外国で全く一家族だけで生きていくのは大変ですから、外国で全く見ず知らずの土地で生きていくというのは大変で、その土地で助け合ったりして生きてくことが、イエス様の人格形成に大きな影響を与えたんだろうというのがわたしの仮説です。マリア様とヨセフ様はお金のがないのに苦しんでいたのを幼いながらにイエス様は感じていたものではないかと思います。     2歳以下の男の子の大虐殺は本当に悲しい出来事で す。エレミヤ35章15節からの引用ですが これは希望なんです。悲しまなくて良いということなんです。これは惨劇の預言ではなくて、こういうことがあっても大丈夫だというのが預言の箇所です。現代は今でも弱い立場にいる人が殺されたりすることが多いと思います。 いつの時代も弱いものが被害を受けるということも事実としてあります。それを受け入れた上で神の恵みに頼りながら生きていくように呼ばれています。それは御心にかなう人に平和という地道なことでしょう。クリスマスのメッセージというのは、神様が人間になったからめでたしだけではなくて、神様が人間になられたからこそ、人間の苦しみを体験しながら救いの道を少しずつ示してくださるそのようなものだということです十

 

2016 年 12 月 19 日(月)
 第 23 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記