カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-02-13 入門講座 25 使徒信条Ⅰ

 英神父 入門講座 25 使徒信条Ⅰ

 今日は使徒信条が書いてある紙を見ていただいて、上に使徒信条、下に ニケアコンスタンチノープル信条 が書いてあります。初代教会から少しした時に、いろんな教会の中でいろんな考え方とか、 ものの見方とか 見解の相違とかも色々あって、それでわたしたちの信仰とはいったい何なのかということを、みんなで確認してつくったのが この二つです。キリスト教信仰のいわば中核にもなっています。今度の洗礼志願式で配られます。 これを信じていきましょう、ということなので、今日はこれを取り上げました。これは初代教会なので、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教、ロシア正教、全て共通のものです。使徒信条の初めの方 から。
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン
この信じるということのいわば宣言文みたいなものなんです。最初の二行「天地の創造主、全能の父である神を信じます。」 神様は天地の創造主であるというのがキリスト教の神様のかなり大切なところです。しかも超越的な、この世を超えた存在であると、そのような神であるということです。日本語の神と違うので、ここを日本語の神で訳すかどうかが大きな議論で、最初は訳さなかったんです。フランシスコ・ザビエルは超越的な神様ということで 、明治時代は天主と訳しました。日本の神様と言うと人間よりちょっと上の霊的存在のようなイメージがあるので、超越的な唯一の神というのは日本人の普通の発想では感覚的にとらえにくいところがあります。日本の神々 仏様がおられますが、それらを超えた、 神様が存在しておられてその方を信じる。 超越的な神様は、わたしたちを超えている何か大きな方でそれを認めるというのは、そのような視点にたつ、そのような感じだろうと思います 。しかも創造主である。宇宙の成り立ちとかは、どれだけ秩序だっているか、美しさがあるか。 ミクロの世界からマクロの世界まで、何かそこにある不思議な微妙な生命のあり方、そういうものを見るときに、最高知性の創造主のような方を考えた方が合理的ではないかと思います。 人間ではなかなか解明できない、自然の神秘を偶然にできたとは考えにくいです。そのような創造主という考え方です。 わたしたちは作られたものである。時々西洋と東洋で、自然に対する考え方が違うと言われます。西洋では人間が自然を征服するべきという考え方だとよくステレオタイプで書いてあるけれども、聖書の中ではそうではありません。わたしたちは被造物でしかない。つまり謙虚さ、創造主や神様に対する謙遜さの中でわたしたちは生きていくということのほうが本当のところではないかと思います。人間が自然を好きに利用したいだけするというのは、無神論者の考えではないかと個人的には思います 。神の存在を信じているなら、自分自身もただの秘造物にすぎません。その謙遜さを持って生きていくのが必要ではないかと思います。 もう一つは「父である神を信じます」人格的に神を捉えるということをキリスト教的な特徴です。父と子の関係を 当てはめています。ここはお母さんでもいいのかもしれませんが、お父さんが子供を慈しむように神様はわたしたちを慈しんでいる。だから超越している神様だけれども、非常にパーソナルな関係がある。人格的なつながりがあるような形で、神を受け止めているということです。マタイ5章43節 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイ5章から7章まで 山上の説教と言ってイエス様の説教をおそらく集めて書いたのであろうと 言われています。 旧約聖書でこのような 生き方を言われているけれどもそれ以上の生き方をイエス様が示す。 大切なポイントは神様はこういう方であるということを示しながら。わたしたちの生き方を示しているということに特徴があります。 「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」とあります。 色々調べましたが隣人を愛せとは書いてありますが、旧約聖書で「敵を憎め」というのは出てきません。「敵を憎め」というのは人間の言い伝えだと思います。神様としての言葉はありません。ユダヤ人のいい伝えの中でこれが出てきて これが命じられています。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」何か超えるものを提示しています。こういうものは難しいと思います。右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいという有名な所があって。わたしの意見ですが 5章から7章 もう一つの掟として受け取るのは、ポイントがずれてきてしまうと思います。というのは45節 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」神様がどういう方であるかということをはっきり言って、そこから神様の生き方に倣うように論理が進んでいるわけです。だから山上の説教の読み方は、父なる神様がどういう方かということを前提にして話が進んでいるから、そこに焦点を当てないとずれてしまう。「敵を愛せ」と言われてもただ愛せないとなったら終わっちゃうし、あるいは右の頬を打たれたら左の頬を差し出すことはできません、で終わってしまう。出来る出来ないのことを言っているわけではなくて、神様の御旨に基づくならば、どのような生き方があり得るか。わたしたちの常識を超える、もっと違う生き方をわたしたちに提案されているものとして、ここは読んだ方がいいです。一つは典型的なところで、例えばわたしたちは敵と味方を分けて、苦手な人に敵対してしまったりすぐグループが分かれてしまったり、それはわたしたちも人間的な思いです。神様は超越的な立場に立っているので、わたしたちの人間の考え の善、悪とかを超えておられるところにいて、わたしたちから見たら善人にも悪人にも両方に等しく神の恵みが与えられている。それは創造主であり父なる神のあり方である。だからわたしたちはその神様の視点にまず立つように呼ばれている。神様がどういう形であるかということを分かった上で、神様の生き方をどう生きられるか。そのような別の考え方、ものの見方で生きるように呼びかけられていると考えた方がいいのではないか。今日の5章から7章の全ては、父なる神様のあり方を根本においてイエス様のお話をしています。わたしたちの常識を超えた神の恵みの世界に焦点を当てて見られたらいいと思います。48節「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」論理的に合わないかもしれません。神様は完全でありますが、わたしたちが完全なものになれるかと言ったら難しいです。この言葉について最近の聖書学者が言うには、多分、訳が間違っている。どこの訳が間違っているかと言うと、イエス様が山上の説教で言うと 、アラム語、ヘブライ語の方言で話されている。でも新訳聖書はギリシャ語で書かれています。それで既に翻訳されていて、だからこのヘブライ語のニュアンスとギリシャ語のニュアンスの意味が変わっていて、ギリシャ語ではテレイオスという言葉を使っていて、日本語では完全と訳すのは正しいです。 ヘブライ語からギリシャ語のところが問題です。 ヘブライ語の完全という言葉は日本語やギリシャ語で言う完全の意味ではありません。完全はヘブライ語でシャレムですが、山から石を持ってきて手を加えていない状態がシャレムです。それを人間が手を加えたらシャレムではなく、不完全になります。だから日本語的に言ったら、人間の手が加わっていない、ありのままのものがシャレムです。創世記11章のノアの洪水で、ノアは 純粋無垢な人と確か書いてありました。それがシャレムです。ここでの意味は何かと言ったら、神様はシャレムな方である。 人間の手を加えていない、ありのままの良い方であって、だからわたしたちも人間的な 知恵を働かせて不完全なものにするのではなくて、神様のありのままのシャレムを生きるようにしなさい。人間が手を加えて不完全にしているものは何かと言ったら、人間が勝手に 適当に枠を決めている。これが不完全さです。 人間が勝手に良い悪いの判断をしているようなことを不完全だと、シャレムではないと言うことをここでは言っているわけです。そのような神様のあり方にわたしたちも倣う。神様が完全であるけれど、わたしたちが完全であるのは無理なんです。全知全能の神様の完全さにわたしたちはなれません。少ししか近づけません。日本語で言う完全という意味は実際は間違いだろうと言われています。 「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。」ヘブライ語で挨拶をすると言ったら ディシュローム、挨拶の言葉はシャロームです。全部同じ言葉で ディシュロームとシャレムがひっかけ言葉になっています。ただヘブライ語になった時にイエス様は言葉遊びをされています。ヘブライ語で挨拶はシャロームですが、本当はシャレムです。ありのままの良いあなたのままであれ、ということです。それでお互いありのままの良さを認めてディシャロームという挨拶が成り立っている。神様はありのままの良さを、わたしたちは人間的な地位を置いて、神様の素晴らしさを、自分なりのありのままで実践していけるようにということで、 山上の説教は全部この考えで書かれています。それをわたしたちは生きていくように呼ばれています。 使徒信条に戻って、そういう神様を信じます、と宣言しますが、信じるというのはどういうことなのか。洗礼志願式にこの使徒信条の紙をもらいます。洗礼式の時には三回信じますかと聞かれますから、三回信じますと答えます。 内容は使徒信条のことを聞かれています。信じるとはどういうことなのか。 三つのポイントをまとめてみました。一つは、目には見えないけれどもその存在を信じますということで使います。少なくとも洗礼を受ける方々は、目に見えない神様がどういうものかと分からなくても、存在を信じることは必要だと思います。 でも神様は創造主であって、わたしたちに恵みとか影響を様々なものを与えているわけで、ただ信じればいいものでもないです。どう信じるのか。わたしはあの人を信じるとよく言います。その人の態度とか言葉とか良いものを信じる。その人の属性を信じる、本質的なところになるわけで、神様を信じるという時に 、ただ存在を信じているだけではなしに、 創造主であるとか、父であるというときの、自分が神様から恵みを受けていたり導かれたり、神は本当に良い方であるとか、神様は自分を導いてくださっているということをどこかである程度感じて、そういう方だと信じるのが二番目だと思います。それはだんだんにしか分からない。わたしにすれば信じるとはプロセスと言うか徐々にです。神様の良さが本当に分かってくるのはだんだんだと思います。分かれば分かるほどより信じられる。わたしたちは神様が直接見えたりはしないけれども、何らかの形で神様を感じられて、だから信じられる。目に見えない神様だけれども、少しずつ神様の働きを日々の生活や祈りの中で感じて信じていけるということがあります。そうやって信じることが深まっていければいいと思います。洗礼を受けられる方々は、それが少しずつ実感できたり分かったり良さがわかってくる。それが二番目です。三番目は信じるとは応答なんです。そういうものに対して神様により頼んで生きていきたいと、恵みに応えていきたいと思うところに、 神様から私に恩恵があることを少しでも感じられるならば、それを答えていきたいというのが信仰になります。それは神様と直接ということと、他の人に対してもそのような気持ちになる。だから山上の説教の話はこの話をしています。どう生きていくかという話をしています。それは神様に対する信じる心があるから、神様のような生き方をしていきたいと思うから、少しでも敵を受け入れる、理解する、存在を認めるよう努めるというところから出発すればいい。それは神様を信じているからこそ、神様の存在の素晴らしさを、少しでも自分の中で生きていくような生き方につながるわけです。上の世界だけ切り離して地の世界だけで考えると、単なる掟の話になってしまうから、敵を愛するとかできない話ですが、でも神の恵みの中でそれを信じていく中で、それが少しでもわたしたちの中でできていくように、あるいは敵だと思っていたら敵ではなかったとか、ものの見方を変えながらわたしたちは生きていく。そういうところにわたしたちの信仰があるわけです。だから信じるというのは積極的な生き方にもなります。何か新たな形で自分自身の周りの人に対して、あるいはもっと違う生き方をしようということにつながっていくわけです。だから旧約聖書の律法をやめて、教会の掟をただ守っていくという変化ではなく、父なる神様の恵みを信じるということになります。マタイ6章1節 「『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。』」その後にすぐにあるのが施しのことと祈りのことです。その後に断食というものが出てきます。祈り、断食、施しの三つがユダヤ教の三大宗教行為、三つの宗教的行為として 推奨されていました。でもどういう行為をするかというより、心がけの問題です。ここに出てくる偽善者たちというのは何かと言うと、人の評価を気にしているということです。良いことをするというのは、人からどう見られているのかというところでやっているわけです。これがイエス様によると信仰の行為にはなりません。水平的に自分の行為の評価をおいてしまうならば、人からどう見られるかとかに捕われてしまうならば、信仰の行為になりません。信仰の行為は神様とのつながりを上におられる神様とのつながりで、たとえば施しをしているかどうかとか、あるいは祈りをしているかどうなのか、あるいは断食をしているかどうかとか、それが信仰の行いになるわけです。でもわたしたちは神様のつながりを忘れてしまうならば、それはただの人間的な行為になってしまう。イエス様は人間の心がけ内面を、そういうものを問うているということです。人間は何かを信じて生きていると思います。何か自分の心の中で価値があると思っているものを信じてそれを生きている。例えば神様の存在を信じる信じないかでは、神様の存在そのものを信じない人はいると思います。ではその人は神様を信じていないから、何も信じていないかと言うとそうでもない。成功しなければと信じたり、競争社会ですから、競争で勝たなければ自分の人生に価値はないと信じるて生きている人は多い気がします。 生きていくためには優秀でなければならないとか、そこまでいかなくても、少なくとも人並みに生きなければならないということを信じている人。お金がなければ幸せになれないと信じている人。人から評価されないと生きる価値がないと信じている人。人から褒められなければ駄目なんだと信じていたりしている。人を見てどうこう言うけれども、 わたしたちの判断の多くはそうでしょう。人からどう見られているかとか気になりますから。それは全部否定できないけれども、神の恵みの中で、神様とのつながりの中で生きられるかどうかということを、イエス様はわざわざわたしたちに問うています。ついでに否定的なことを信じている人も多いです。自分の人生は全く駄目だと信じていたり、自分は人生の落伍者だと信じていたり、自分のことが大嫌いだと信じていたり、否定的なことを信じている人も多いです。それが転じて攻撃的になることもあります。だから神様の何を信じるのかも案外大切な問題で、イエス様はよく神様の愛や恵みをおっしゃいます。神様は怖い方だと信じている人は多いです。全く怖くないとは言えないけれども、神様はまず自分を愛して受け入れて導いて守ってくださっている方だというのは案外信じ難い人は多いです。つまりなぜか特別に自分に罰を与えられているということに信じがちな信者さんもいます。そのようなことに捕われないで、神様の恵みの中でわたしたちはあるということを信じて歩めるか、そこからわたしたちの生き方を示せるかということはあるのではないかと思います。 使徒信条「父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。」イエス・キリストを信じるということが二番目になります。その中で「父のひとり子」 父なる神様と特別な関係があるということが一つ。わたしたちの主であるということ、これも分かりにくいことです。この講座でイエス・キリストの話をしていますが、イエス・キリストを通して神様がどういう方かとあらわれていることがイエス様の素晴らしさ。わたしたちが常識的に考えることではない、人間の作った神ではなくて本当の神はこういう方だとイエス様が言葉と行いを通して示されている。それが素晴らしいと思います。そしてそのイエス様が主である。主とは権力のある方である。高山右近は侍でしたから、誰に仕えるかと言うと主君に仕える。 信長、秀吉、家康と三人と関係があったんですが、一時は秀吉の部下であって、それで秀吉が高山右近に手紙を出して、切支丹であることを捨てるか、わたしの部下であることを捨てるかどちらかを選べと言いました。高山右近は何の迷いもない。彼にとっての主は神です。二番目は秀吉です。 秀吉の命令より、イエス様が主であったので、秀吉につくのをやめて、大名の地位を捨てて追放になりました。それはイエス様が主であることを受け入れているからです。高山右近は抜群の武将だったから、秀吉は 自分の側近にしたかったんです。右近は忠実な人間であったし、戦も上手だし、自分の側近であればものすごく活躍する。でも断ったのを驚いて、千利休を遣わして説得しようと思ったけど全く駄目でした。それで秀吉がその後にバテレン追放令を出しました。イエス様を信じるとはどういうことなのか。一番目はイエス様の存在を信じ、二番目はイエス様の素晴らしさが少しずつ分かってくる。 イエス様の言っていることとか信じるに足ると言うことを少しずつ覚えたらいいということと、もう一つは三番目の応答するということから言うと、イエス様を信じるということはイエス様の価値観、生き方を実践していくということにつながるわけです。ヨハネ14章1節「『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。』トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」ヨハネの福音書は長く難しいということもあってあまり読まないのですが、今日のところは読んだ方がいいと思いました。これは最後の晩餐の時のイエス様が十字架で死ぬ前に、弟子たちに話した告別説教です。13章から17章まである 長い長いお別れの言葉です。印象的な言葉の中の一つです。冒頭は「心を騒がせるな」わたしたちは心を騒ぐわけです。 どうすればいいか。はっきりと「神を信じなさい」とイエスを信じなさい。信じることがわたしたちの心の騒ぎを超えていくものだということです。ヨハネの福音書では信仰という名詞は一回も出てきません。信じるという動詞しか出てきません。ヨハネの福音書は先ほどの三番目。「イエスと共に歩む」という言葉で「信じる 」という言葉を使っている。イエス様の信頼に足る方であって 、自分の主である。イエス様は 頼っていける方なので自分も倣っていく。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」そういう意味も含まれています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」父の家とはどういう意味なのか。二つあって一つは 死んだ後の天国という意味もあるし、もう一つはこの世の中でもわたしたちがどこに属して生きるのかということもあります。「住む所がたくさんある。」というのは大きなお恵みだと思います。キリスト教は典型的な一神教です。 超越的な神様一つしか認めていない。みんな同じようにやらなければいけないと思うかもしれないけれども、同じではなくて住むところはたくさんあるんだから 多様でいいということです。超越した神様だからこそ、家がいっぱいあっていろんな生き方が認められているということです。あるいはもっと別の言い方で言うと、いろいろな居場所とか生き方があると言えるかもしれない。 遠藤周作原作の「沈黙」がマーティン・スコセッシ監督で映画化されました。遠藤周作の世界観をそのまま表しています。その中でキチジローが出てきて、迫害の中で裏切ってばかりいるけれども、神父様についていく姿があります。そのセリフに、 神父さんみたいに強い人はいい。それで生きられるでしょうけれども 、自分みたいに弱いものには居場所がない。とあります。 弱い人には居場所がない。「沈黙」の 映画の中にも結論の一つに、弱い人にも居場所はあるんです。父の家には住むところがたくさんあるんだから、居場所はあるということです。現代人の一つの悩みは、この世において居場所がないことです。いろんな意味で落ち着き所がない。そう悩んでおられる人が多いかもしれない。 父の家には居場所がある。それはまさしく福音、恵みの世界だと思います。しかもイエス様が「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意した」居場所が全くないように見えても神様の懐の広さの中で、イエス様が居場所を作ってくださる。わたしたちは何の心配もなく神様を信じることができます。しかも場所を用意するだけではなしに「 戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」神の恵みの世界へのイエス様は仲介者です。だからイエス様が場所を用意して迎えにきてくださるから、 わたしたちに心の不安がなくなります。ということをおっしゃっています。でもトマスは人間的なので「 主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」そして有名な箇所です。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。』」イエス様は道である。わたしたちは道を歩んだらいいのか。イエス様が歩んで行く道を示してくださるから、イエス様を信じて生きることができる。日頃の生活の中で、神の道とは何なのかということです。そして真理である。真理をどう訳すか 。わたしは真実か大切とか大事なこととか。本当に大事なことは何かということをイエス様が教えてくださる。この世で大事にされているものではなくて、神の目から見た大事なこと、大切なことが示されて、それをわたしたちは生きることができる 、受け取ることができる。命である。命というのはこの世の命ではなくて、 永遠の命につながる、魂の養いのような、そのような 命がイエス様を通して与えられます。だからイエス様に従って行くことができる。 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」つまりイエス様を通して、わたしたちは神様がどういう方であるかということを、イエス様の言葉や行いを通して知ることができる。 それがイエス様の素晴らしさ、神様はこういう方だったのか。神様はこういうことを大切にしておられるのだということが、この世の常識ではない形でわかる喜びのような。どういうことかと言うと「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」イエス様と父なる神様とは相互内在と言うか、どちらがどっちか分からないぐらい密接な関係があります。そのようなことを父のひとり子として表現されています。だからイエス様を通して神の恵みがどうなのか、神様は何を大切にするかということを、言葉や行いを通してわかるわけです。イエス様のいやしの業とか イエス様の言葉は神様の素晴らしさそのものを、そのまま示していると言えるだろうと思います。それを信じていくということです。 「 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」イエス様を信じていくならば、つまりイエス様と共に歩んでいくならば、イエス様が果たした業よりももっと大きな業が、わたしたち人間を通してこの二千年間あらわれ続けている。例えばマザー・テレサを通してどれほどの業が行われたか、どれほどの神様の恵みが示されたか。福者とか高山右近とかを通してですけれども。高山右近ですが、周りの大名がどんどん信者になっていきました。神父様の影響ではないんです。高山右近の生き方があまりに素晴らしかったから、周りにどんどんみんな信者になっていきました。 高山右近を通して大きな業が働いたし、マザー・テレサを通して、わたしたちは大きなことはできないけれども、小さな形でイエス様の業を行えるように呼ばれているということです。それはイエス様を信じていくということだと思います。イエス様の素晴らしさが分かってくるとか、言葉の意味が自分の腑に落ちてくるとか少しずつだと思います。信じるということはプロセスだから、それは少しずつ信仰の歩みの中で、信じられるようになっていければいいのではないかと思います十

 

2017年 2 月 13 日(月)
 第 25 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記