カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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7-26 万事が益となるように共に働く

  

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マタイによる福音書 13:44-52(そのとき、イエスは人々に言われた。)「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
《「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」》   

 マタイの福音書には、様々な天の国、神の国のたとえ話が載っていますが、これも非常に印象的なお話だと思います。畑に宝が隠されている、なんで畑に宝が隠されているのか。今だったら貸金庫のようなところがあって、そういうところに納めておけば良かったかもしれませんけれども、そういうものが無い時代ですから、宝を土に埋めて隠しておくということは当時はあったようです。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」というわけです。何でこの人は畑に宝が隠されているというのが分かったのかということと、この宝をどうやって掘り出したのか疑問点が多いです。本当にそこに宝があるかどうか普通はあまりよく分かりません。日本でもあちこちに、武将とかの財宝を山の中腹で掘っている人もいないではないでしょうし、あるいは私がフィリピンに行った時に、ルソン島の端のほうでしたが、第二次世界対戦時にジェネラル山下が財宝をいっぱい持ってきて隠していると、フィリピン人が何人も私に言ってきました。その財宝をトレジャーハンターみたいな人が探したり、宝探しが映画になったりして、場所を探して見つけるのがなかなか難しいし、場所を探しても掘り出すのに仕掛けがいくつもあって、映画ではなかなかたどり着けないとか、そういう事も色々あって。だからどうやってこの人がそこに宝があると分かったんだろうかというのが一番不思議なところです。この人は「持ち物全部売り払って土地を買って」いるので、もしガセネタだったら全財産なくしてしまうことになってしまう。そこまでして、ここに絶対あると思ったことと、どうやってわざわざ掘り出したことが気になるお話ではあります。

当然これはたとえ話しですけれども、この畑というのは聖書では何を表していて、この宝ということが私たちにとって何を表しているかということです。わたしが思うところには、私たちクリスチャンというのはこれはもうハズレくじなしで宝が隠されている畑を既に購入している人だと思います。全財産を売り払わなくても、洗礼を受けるのはタダですから、タダで既に宝が隠されている畑をもう既にクリスチャンは持っている人だと思います。ただ残念ながら宝が隠されていることにあまり気づいていない。あるいは宝を掘り出していないというのが一番の問題ではないかと思います。洗礼を受ける時には何か喜びとか宝物があるのではないかと思って洗礼を受けられた方は多いでしょう。畑というのは元々宝を隠すためのものではないですから、畑というのは耕して作物を植えたりするところですから、結局私たちの気持ちは畑の上の収穫と言うかそちらに気持ちがいって、作物がとれたかとれなかったというところにいつのまにか気持ちがいってしまうので、隠されている宝を掘り出すことを忘れてしまっている。そういう人の事を日本の諺で、宝の持ち腐れということになってしまう。畑から得られるこの世の宝ではなくて、畑の中に隠されている莫大な宝が実は私たちクリスチャンには約束されているということです。ただあまり掘り出していないから、畑で作物がとれたかとれてないかということで喜んだり悲しんだりしているだけで終わっているのではないかと思います。だから畑の中に隠されている宝、本当の一番大事なことは隠されているということです。だから見つけなければならないということです。それを私たちは探すように心がけましょう。どうやったら宝を掘り出せるのか、見つけられるのか。一つは明らかにお祈りだと思います。祈りを深めることによって、神様の深い深い神秘がどれほどあるのか。どれくらい埋蔵量があるのかといったら、本当のところは無限だと思います。掘り出せば掘り出すほど宝が次から次へと出てくる、それが私たちに与えられている信仰の本当の喜びでしょう。祈りを深めれば深めるほど神様の素晴らしさ、私たちに与えられている恵みが、どれほどあるかということが分かってくるでしょう。そしてイエス様がおっしゃる通り、互いに愛し合うことによって、自分の収穫ばかり考えているのではなくて、いかに苦しんでいる人や困っている人を助けようとするかどうか。互いに愛し合っていく中でこそ、宝というのはいつのまにか少しずつ出てくるものだと思います。出てきているのさえ気づかない場合もあります。特に今はコロナのことで、皆さんもソーシャルディスタンスをとって座って頂いているわけですが、これだけディスタンス、ディスタンスと言われていると、心のつながりをどのようにしてもっていくのか。愛をいかに生きていくのか。以前よりもずっと問われていると思います。人に関わらない方が感染しないで安全ですから。でもそれを超えてどう人と人との繋がりを私たちは持っていくのか。そういう時にこそ隠された宝が少しずつは出てくるのではないかと思います。もう一つ言うならば、自分の人生でうまくいかない時がある時に、その時こそ宝掘りのチャンスだと思います。つまり畑が豊作で続いていたらそれでいっぱいいっぱいで。つまり畑を掘り出していたら作物がとれないですから、畑は収穫のためですけれども、でも逆に今のように世の中がうまく回ってない時こそ、畑の上の収穫のことを少し横に置いて、畑を掘り起こしてみて、宝探しをする大きな大きなチャンスが与えられていると思います。実は社会全体に与えられていると思います。でもすぐに私たちは再開再開とか元の畑にどうやるかとかばかり気持ちがいってしまうから、肝心なところを見失っていると思います。今こそ私たちは隠されている宝に気が付いて宝探しをする時だと思います。

今日の第二朗読で、有名なところですが「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」万事が益となる。つまりすべてが私たちの恵みになるということです。どんなことであってもそれは私たちに益になって働くということ。それは宝が発見できるからです。畑の上に収穫物がなくても。でももっともっと深い恵みの世界が与えられるからこそ、全てどんなことでも利益となって本当の恵みとなって、私たちに与えられているということをわたしたちは知っています。わたしたちとはパウロを含めた私たちはということでしょう。

その恵みを私達はしっかりと気づくというか発見していくというか、掘り出していかなければなりません。自分のためだけではなしに、今苦しんでいる人々のためにということもあるでしょう。

このコロナの時代であるからこそ、私たちが隠された宝を今発見して、今、分かち合っておくべき時だと思います。そして私たちは苦しみを超えた恵みの世界に向かって本当の意味で歩んでいける。ただ経済が再開したらいいというだけの話しではないということです。私達信仰者にとっては。本当の恵みを本当の宝を見い出しながら、歩んでいけるように、少なくとも探しながら歩んでいけるように、心を合わせて祈り、共に助け合っていきたいと思います十

第一朗読  列王記 上 3:5、7-12
その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。(ソロモンは答えた。)「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:28-30
(皆さん、)神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 

2020年 7 月 26日(日)
 年間 第 17主日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記