カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

8-15 聖母の被昇天 体を通して表された救い

       youtu.be

ルカによる福音書 1:39-5 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 そこで、マリアは言った。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。 その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った十

  今日は聖母被昇天の大祝日にあたっています。被昇天というのはどういうことなのか。人間的にみればマリア様が地上の生を終えて亡くなった日でそれを記念する日です。マリア様の場合は亡くなった直後に体を持ったまま、天に上げられたということを記念しています。
この聖母の被昇天はかなり新しいもので、20世紀になってから1950年に教皇ピオ十二世が教義として宣言されたとなっています。その時は様々な賛否両論があって、多くの普通の方々は歓迎したんですが、神学者などの知識人の方はかなり反対という気持ちも強かったんです。なぜかというとプロテスタントの関係がまずくなったり、あるいは聖書に載っていないので、わざわざ創立する必要性はなかったのではないかと反対が多かった教義ではあります。
ただ知識人の中で聖母の被昇天を絶賛した知識人が一人いて、それはクリスチャンではない、心理学者で有名なユングです。ユングはこの被昇天をものすごく絶賛した。知識人はほとんど反対だったんですが、唯一絶賛したのがカトリックではないユングだったんです。何でユングが被昇天を非常に賛同の意を表したかというと、体ごと天に引き上げられたということは意義があると。わたしたちは普通、天国に招かれる時に肉体を置いて、魂だけが天の国に行くと考えがちですけれども、マリア様が天国に行かれたのは魂だけではなしに、体と共にということです。それはユングが正しく指摘している通り、わたしたちの救いは魂の救いだけではなしに、体の救いも入っているということの大きな印だということです。
これは言うまでもなく体の復活です。イエス様の復活と深い関係があるということです。死ぬということは体が滅んでしまうということですけれども、その体の滅びも実はわたしたちの最終点ではない。実際にわたしたちの体は復活の恵みの中にあるということです。これはキリスト教的な考え方の中で非常に重要なことです。
考えてみれば当たり前のことだといえば当たり前のことですが、わたしたちの愛する行いとか人を愛する。それは全て体を通して表されるからです。喧嘩するのも体を通して言葉を通してだったり、暴力を振るったり。でも逆に和解したり仲良くしたり平和に暮らすのも、全部わたしたちは体を通して行われているということです。互いに憎しみ合うことも、互いに愛し合うことも、わたしたちの信じているもの全て、体を通して表現されていて、体を通して表現されているところに、罪が生まれたり救いの現実が実現しているということです。
この被昇天の教義で一番大事なのは、わたしたちは体を通して生きていて、体を通して表されたものもわたしたちの救いに深くつながっているということの、大きな恵みというか希望が示されているということです。だからわたしたちは何が大事かといえば、あたり前のことですけれども、わたしたちは体を通して日常生活をしている。ご飯を食べたり働いたり友達と喋ったり、ほとんど全部です。ほとんど全部が体を通して表されることだからこそ、一つ一つの行為や言葉を大切に生きていく。つまり愛というのは必ず行いに表されるということを、しっかりと受け止めていく必要性があるということです。
ただやはり大きな問題もあります。今のコロナウイルスの危機は何かと言ったらまさしく体の危機です。人と人との交わり、つまり身体と身体をなるべく距離をおきましょうという一つの危機が今、全世界に来ている。ただやはり危機的なことも体を通してくることも多いわけです。コロナウイルスだけではない。病気をしない人はあり得ないでしょう。そして老いていく、歳をとっていくということも、一番はっきりあらわれる。体が弱くなる、耳が聞こえなくなる、目が見えなくなり頭が薄くなってくる。ほとんどは体に表れますし、そしてわたしたちは死という現実を受け入れなければならない。そして目の前に迫ってくる死の問題は体の機能が停止して、一時ではあるけども体が滅んでいくという。だから苦しみとか悲しみも多くのことは体を通してやってくることも間違いないわけです。
わたしたちは体を通してやってくる様々な苦しみも受け止めなければならないわけです。でもどうやってこれを受け止めていくかというならば、はっきりしていますが、わたしたちの肉体的な苦しみ全てです。イエス様が十字架上で、つまりまさしく自分の体を通して、わたしたちの罪を贖ってくださったという所に、わたしたちのいつも希望が与えられているということです。イエス様が十字架上で苦しまれたのは心だけが苦しんだわけではありません。明らかに体そのものが鞭打たれたり、最後は十字架にかけられたり、肉体的な大きな苦しみをイエス様が背負わされたからこそ、イエス様の復活の恵みによって、わたしたちが体を通して受けたすべての苦しみは、イエス様の復活によって恵みに変えられるということです。その恵みというのは体の復活として表れるということです。わたしたちの体の苦しみはどう考えたって一時的なものにすぎないということです。でもこの苦しみをイエス様と共に受け止めて、愛を生きていこうとするならば、わたしたちもマリア様と同じように体の復活の恵みを受けとれるということです。死が全く終わりではない。体の滅びは一時的なものにすぎないということです。そのような希望を抱いてわたしたちはこのマリア様の被昇天をお祝いしましょう。それをわたしたちの希望の姿がはっきりと表わされているということです。
日常生活の体を通した日々の小さな出来事の積み重ねですけれども、それをマリア様と心を合わせて大切にしていきましょう。そして大きなコロナウイルスの危機に直面していますけれども、わたしたちもいつかこれを乗り越えていけることは間違いないと思います。イエス様の十字架の贖いと、そしてマリア様の執り成しを信じて、わたしたちの体に対する危機も受け止めながら、それを乗り越えていくことができるように。わたしたちが魂においても体においても、両面から救いの恵みを生きていくことができるように、心を合わせて祈りを捧げたいと思います十

第一朗読  ヨハネの黙示録 11:19a、12:1-6、10ab
天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え(た。)
また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、神の用意された場所があった。
わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。
「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:20-27a
(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです十

 

 

2020年 8 月 15日(土)
 聖母の被昇天〈白〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記