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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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2016-6-5 ナインの町で起こったこと

英神父 ミサ説教                              聖イグナチオ教会 ミサ於

ルカによる福音 16章19-31節 イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった十

 今日のエピソードは印象的なお話です。亡くなった若者を、よみがえらせる奇跡をイエス様がおこなったという。ナインという町でイエス様がその奇跡はおこなわれた。弟子たちとか、群衆と一緒にこのナインの町に入っていくと、お葬式をやっていたんですね。一人息子を亡くした母親をみて、イエス様は「憐れに思い」と書いてあります。
憐れに思い、というのは聖書の中では強いことばなんですね。有名なギリシャ語で「スプランクニゾマイ」(splanchnizomai)。おなかの中から、はらわたから、心の底から突き動かされるというようなことばなんです。今年が慈しみの特別聖年ですが、慈しみということばは、このことばなんです。慈しみというと割とやさしさが強調されているんですけれど、聖書の中では「憐れみ」と訳されている。どっちの訳がいいか、議論があるのですが。慈しみの特別聖年の慈しみ、というのはこのことばなんですね。
神様がお腹の中から痛みをおぼえられて、わたしたちに恵みを注いでくださる。そのイエス様の慈しみの心から、憐れみの心から、この若者は命さえ、よみがえった。イエス様が「起きなさい」というふうに言われると、イエス様のことばを聞いて、この若者の命がよみがえるという、信じられないような奇跡が行われるわけです。確かにそれを見た人々は、非常に驚いただろうと思います。あまりにも神の憐れみのすごさというか、神様の力のすごさに、圧倒されたのは間違いないです。
このナインという町は今でもあるんですね。イスラエル巡礼に行かれた方もおられるでしょうが、普通のコースではナインはあまり行かない。わたしがイスラエル巡礼に行ったときに、ナザレにいたんですけれど、たまたま予定がない空白の時間が、3時間ぐらいあまったんです。そうしたら、ドライバーの人が、そこのすぐそばにナインがあるから一緒に行ったらどうか。ということで、元々予定にはなかったんですが、ナインという町に行ったんです。
そうしたら、かなり大きめの聖堂が建っているんですけれど。そのユダヤ人のドライバーに聞いたんですけれど、ナインという町は今は完全にイスラム教徒のアラブ人の町になっているんですね。そしてナインの奇跡を行った、記念する教会を守っている家族だけがクリスチャンで、その家族が代々お御堂を守っている。目の前にモスクが建っているんですよ。
町というか、村の人は全員イスラム教徒で、その教会を守っている家族は、家族で外出ができないんです。家族で留守にしてしまうと、イスラム教徒が教会を壊してしまうんです。必ず家族の誰かがいて、教会を守っているというんです。大変な仕事で重荷なんだろうと思います。
聖地の主な教会は、フランシスコ会や修道会が管理しているところがあるので、修道会がバックにあるから、お御堂もちゃんときれいで整っているんですけれども、ナインというところだけは、放り出されているような感じで。ユダヤ人の一つの家族が、ほそぼそと聖地を守っていて、巡礼者もそれほど来ない。われわれが行って見せてくださいと言ったら、すごい大きなかぎを渡されて、お御堂の大きな扉を開けて入ったんです。
それなりに大きな聖堂ではありましたけれど、あきらかにミサをやっていない。整えられてなく、倉庫のような感じで、とにかく入ったんですね。壁画も、ナインのやもめの奇跡が描かれているんですけれども、それも、はげてて。
見るものはそれだけですから、時間もあるので、巡礼者のグループで分ち合いをやったんです。せっかくだから、お祈りと分ち合いをしましょうということで。
ボロボロのいすを集めてはじめた。その分ち合いとお祈りが、その巡礼で最も印象的ものとなりましたね。自分の苦しみや辛さを抱えていることを、素直にお互い、分かち合った。そこで共同祈願のようにみんなで祈りをささげたんですね。お互いのつながりを確かめて、そしてナインのやもめの息子をよみがえらせた、イエス様の力が、そのときの巡礼団に働いた。神様の憐れみの心を強く感じた、すごく印象的な訪問になったんですね。
その一家族だけが必死で聖堂を守っているのも驚いたし、彼らの熱意にも驚きましたが、限界があり、朽ち果てていく、ボロボロの教会なんですが、その中でおこなった、分ち合いと祈りには、主が今も生きておられて、触れてくださったことも、確かなことだったんですね。
今日は建堂記念日ですが、わたしたちが何を記念しているのか。ナインの教会にくらべたら、百倍くらいきれいなお御堂だけれども、でもやはり教会というのは建物ではない。やはりわたしたち同士の分ち合いやつながり、そして互いに祈りあう心。そこにこそ教会があるのではと強く思います。
もちろんこの聖堂は大事にすべきだし、誇りに思うぐらいすばらしいし。それは装飾どうのではなく、みなさんの祈りがしみていますから、神様の恵みを強く感じる聖堂で、すばらしい。でも本当にすばらしいのは、神様とそこで祈っている、わたしたちのつながりと、祈りの心。そこに主の憐れみが、今もみなさん一人一人に働いている。それが本当のお恵みだと思いますね。だからこそわたしたちはナインのやもめみたいに、自分の悩み苦しみを、祈りの中で神様に訴えることができる。
あるいは信頼できる仲間に、悩みや苦しみを分かち合うことができる。そこで神の憐れみの力が、今も働いている。どのように働くかは、人によって、場合によって違うでしょうけれど、ここにいる多くのかたがたは、神の憐れみの慈しみのすばらしさに、触れたり、感じたり、ということが度々あると思います。それをわたしたちは、記念している日だと思います。それがまた、このお御堂を通して、わたしたちの教会、共同体を通して、神の慈しみがこれからも働くように、わたしたちは、願いと祈りをささげながら、歩んでいきたいと思います。
今日は教会祭で、終わってからバザーとかいろいろ出られたらいいと思いますけれど、わたしたちは本当にお互い同士のつながりと、わたしたちのささげる祈りによって、教会というものが成り立っている。そこに神様の慈しみの憐れみの心は、今日も働いているし、今までも働いていたし、これからも恵みの中にわたしたちが歩めると思います。
その信頼と互いの愛と、神様に対する信仰と祈りを、ここで新たにして、わたしたちはお御堂も大事にして、お互いの交わり、神様を大事にしながら、歩んでゆけるように、このミサでお祈りしたいと思います十


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 第一朗読列王記上17・17-24

 そのころ、エリヤの住んでいた家の女主人であるやもめの息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

 第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙1・11-19

 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。

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