カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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11-23 イエズス会 山内 保憲 神父  黙想会 ミサ 

山内 保憲 神父  黙想会ミサ説教 イグナチオ教会於

    1:46:55〜  youtu.be

ルカによる福音書 21:1-4(そのとき、)イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
 11月23日に黙想会がなされる。非常にいい節目と言いますか、ちょうどこの典礼の暦が一年の終わりを迎え、来週はもう待降節が始まり、新しいカレンダーでスタート致します。
また11月は死者の月です。急に寒くなり、冬の始まりを感じます。おそらくヨーロッパでは、もともと死者を祈念するお祭りがあったのかなと、想像することが簡単に出来ます。冬の季節と死の季節の始まりというイメージが繋がっているのかと思います。そして朗読の箇所にも「世の終わり」とか「裁き」とかいった箇所が繰り返し読まれていきます。
ロヨラハウスで生活していますと、多くの神父様がいわゆる認知症を患っていらっしゃいます。少し穏やかではなくなる時間帯というのが、だいたい黄昏時、夕方です。ヘルパーさん達から「黄昏症候群」という言葉を聞きました。これが11月になると時間を問わず、一日中「黄昏症候群」のような、少し落ち着かなくなる季節が始まります。
一番多いケースが、「どこかに帰らなければいけない」と皆さん真面目な顔でおっしゃるパターンです。「すみません。ちょっとね、帰らなきゃいけないもんでね。お金を貸してもらえますか。」「いいですけれども、神父様、どこにお帰りになられますか。」「それは分からないんだよね。でも、とにかく帰らなければいけない。」とおっしゃって「どこに行くか分からないのに、お金だけお貸しすることは、危ないから、申し訳ありません」とお断りするしかない。同じような会話を一日中繰り返すようになるのは、この11月が特に目立ちます。
今、福音で、貧しいやもめの献金の箇所を朗読しました。イエスの目には、この女性が一体何をしたのかというのが、はっきりと見えているようです。金持ちたちなどの人の目から見れば、それは本当に小さな金額なのかもしれません。しかし、それが神の前ではどれだけ価値があるのか、金持ちたちは気づきません。想像ですけれども、おそらく金持ちたちが、賽銭箱にそっと入れるのではなく、自慢げに自分が今から入れるこの大金を、見せびらかすようにして賽銭箱に入れている姿を、イエスは神殿のどこかに座りながら、冷ややかな眼差しで眺めていたのだと思います。イエスの目には、この金持ちたちがしていることが、すごく的外れだと感じているように思います。
わたしは小さい時から勉強があまり得意ではない、成績が良くないタイプの子供でした。のちに教師に自分自身がなってから分かったのですが、わたしのようなタイプの子は成績が良くないタイプです。というのは、いろいろ理屈を考えてしまいます。いったい何のためにこういうことをするのかとか、そういうことばかり考えてしまうタイプでした。
はっきりと覚えているのが、私が小学校4年生ぐらいに、父が「勉強しろ」というので、わたしは「いったい何のために勉強するのか」と口ごたえしたことを今でも思い出します。「いい大学に行く、いい仕事に就く、いい収入を得るためだ。」「それで。なんで。それから。」と聞いていくと「最後は死ぬんだ」と父が言う。「じゃあ、死んでいくために勉強するのか。何のためにやってんだ」と喧嘩になって「黙れ」と怒られたことを覚えています。
中学生になってもそれがずっと続きました。三平方の定理を教えてくれる先生に「いったい何のために三平方の定理を覚えなきゃいけないんですか」もしもその先生が「中間テストのためだ」なんて言ったら、そんなバカな理由のために、こんなことをしなくちゃいけないんだといって、授業をあまり聴かなくなる。もしくはテストにちゃんと答えない。こんなタイプなので成績が良くありません。
大人は誰もちゃんと答えてくれなかったんです。随分大人になってから、もうちょっと早く誰かが教えてくれれば良かったのですが、イエズス会創立者の聖イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」を体験して、その「原理と基礎」を読んだ時にびっくりしました。「人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、こうすることによって自分の霊魂を救うためである。また、地上の他のものが造られたのは、人間のためであり、人間が造られた目的を達成する上で、人間に助けとなるためである。したがって、人間は、そのものが自分の目的に助けとなる限り、それを使用すべきであり、妨げとなる限り、それから離れるべきである。」言ってくれる人がちゃんといる感じがしました。初めてはっきり言っている人が。「神を敬い、賛美し、仕える。」ことなんだ。イグナチオに言わせれば、わたしが勉強をするかどうかは、わたしの判断に委ねられている。勉強することで神を賛美し、敬い、仕えることにつながるのであれば、わたしは大いに勉強に励むべきであります。もし勉強して良い成績をとって、周りの友達から羨ましがられたり、先生から賞賛されたり、高い地位につくことが目的であれば、わたしは潔く勉強することをやめたほうがいい。なぜならそれはわたしの目的にかなっていないから。
しかしいざ、わたしたちの毎日の生活を振り返っていくと、そんなに単純ではないと気づかされます。よく考えたら目的を勘違いしながら歩んでいく、前に進んでいくというのは、あまりにも危険なことではないかと感じないでしょうか。先ほどの認知症の神父様が、帰りたいのだがどこに帰るのか分からない、というのを聞いて、わたしたちは笑い話しのように聞いています。しかし、わたしたちも何のために生きているのか、どこに向かって生きているのかを分からないにも関わらず、とにかく進んで行こうとしている。どこに帰るのか分からないのに帰ろうとされる神父様と、わたしたちはいったい、どれだけ違いがあるのでしょうか。わたしたちが目指していくもの、それは神の国の福音です。イエスは今すでにここで、神の国、神の支配が始まっていると、そのように伝えています。
わたしたちの生きる基準の全てを、神のはからいにおいていく。財産があるかどうか、 地位があるかどうか、著名であるかどうかに基準を置くのではなく、ただ神のはからいだけに望みをおき、全ての行動と思いの基準を神に求める。その信仰と態度を持つ人間は、神の国を受け入れることができる。
その神の支配のあり方とは何か。愛の支配です。貧しい人や身寄りのない人に、見捨てられた人を、イエス自らが探し求めて、御自分の元に呼び戻そうとされる。そのイエスの愛のなさりかたです。
でも実際は、明日からわたしたちはイエスのような愛の業に生きるよう取り組み始めます、と言ってスタートすると、たちまち恐れにとらわれていきます。自分の財産を失ったらどうなるんだ、困るんじゃないか。こんなことをやりだしたら友達から善人ぶっている、と言われるんじゃないか。あいつ頭がおかしくなったと思われるんじゃないか。こんなことを決意したが、自分が本当にそれを担っていくことができるんだろうかと、次々に恐れがわたしたちを支配し、わたしたちは結局何も変わらない。個人だけではなくグループでも同じようなことが起こるのかもしれません。
「このようなことは教会がやるべきことなのだろうか?」「わたしたちがそれをやり始めたからといって、何か社会や地球環境が変わるんだろうか?」「そんなことをやり始めて、今までの教会の雰囲気、伝統が壊れたら一体どうするのだろうか?」などという恐れが出てきます。
しかし今、わたしたちが目指しているのは恐れずに、イエスに全ての基準を求めていくことだけです。そしてそれを本当に求めていく時に、わたしたちの目が開かれます。今ここで一瞬一瞬に、神の恵みで満たされている。そのことに気づいていく時に、わたしたちは神の国を受け入れていくことができるのです。
「人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、よってそれは自分の霊魂を救うためになる」。自分の霊魂を救うというのは、神の国を受け入れていくということであります。自分の霊魂をただ自分のために救うというわけではない。神の国を受け入れるようにと呼びかける、イエスに従っていくということであります。
わたしたちのささやかな取り組み、歩み、毎日の小さな識別の祈りが、一歩一歩、そして少しずつ、このイエスのなさり方、神の国の支配に、わたしたち自身が入っていくことができるように、受け入れていくことができるように、変えられていくように願いたいと思います。恐れや不安を取り除いてもらいながら、潔くわたしたちが望む方向に向かっていくことができるように。その力、恵みを、この御ミサの中で願ってまいりましょう。

 

第一朗読  ヨハネの黙示録 14:1-3、4b-5
わたし(ヨハネ)が見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである+ 

2020年 11 月 23日(日)
 年間 第 34主日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 山内 保憲 司祭 黙想会ミサ説教

          教会黙想会 「新しい協働に向けて―霊操の入り口を体験するー」