カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-04-11 入門講座1イエスとは

英神父 入門講座 1

 キリスト教ということの中心に何があるかというと、これは明らかにイエス様という人が、約二千年前にイスラエルに生まれてそこで活動したり、その時に語った言葉や行いにほとんど集約されているようなところがあるんです。それはわたしたちにとって様々な形で救いの生き方に繋がっているということなんです。イエス様自身は何も書いていないんです。本当に偉い人は自分で書かないんです。お釈迦さまもそうだし孔子もそうだし、イエス様も自分で書かないで弟子が書くんです。イエス様自身は何も書いていないんですが、弟子が書き残したものが残っているということです。聖書をみていただいたらいいんですけれども、新約聖書というのがあります。みなさんの前にあるのは旧約・新約合わせたものだと思うのですが、前半の大半は旧約聖書といって、イエス様が生まれる以前のユダヤ教の経典になっていて、様々な預言者や様々なかたちで語られた言葉が神の言葉としてまとめられているんです。この講座では特に旧約聖書は扱わないです。新約聖書というところから見ていただいたらいいのですが、新約聖書の目次を見ていただいて、そこにあるマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書というこの四つの福音書ですが、これはイエス様の直弟子もいればその孫弟子ぐらい、あるいは孫孫弟子ぐらいになる人が、直接にイエス様に出会ったり、あるいは弟子から聞いたことをまとめて書いたことがこの四つの福音書になるわけです。この四つの福音書は似ているようで、ちょっとづつ違うようであって、違っているようで似ているんです。現在イエス様のことは、あるいはイエス様の行いを知るには、この四つの福音書を通してわたしたちは知ることが出来るということで、この講座でもだいたいはこの福音書を通してイエス様のメッセージは何だったのか。イエス様はどういう人だったのか、何をされたのかを知る、そういうことを中心にしていきたいと思います。ついでに言うとその後に、使徒言行録というのがありますが、これは後の話なんです。イエス様が生きていた時代のことがこの福音書の中に書かれていて、この福音書に書かれていることはイエス様が亡くなる、十字架に架かって死ぬというところと、死んだ後に復活するというところまでがこの福音書で書かれています。その後の弟子たちの活躍は使徒言行録というものの中に書かれているんです。その後にローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙とずっと続くのですが、ほとんどがパウロという弟子が書いた手紙です。これも講座の中で部分的に取り上げたりすることがあります。パウロという人はイエス様が生きておられた時の弟子ではないんです。イエス様が十字架に架かって復活された後からになるので、イエス様と実際付き合っていたわけではないんですが、パウロも重要な弟子の一人なので、しかも彼は筆の立つほうだったので、手紙をいっぱい残しているんです。
マタイの福音書の一番最初のところを開けていただいて、この大きく1と書いてあるのが章なんです。文章の横の小さな数字が節です。だいたい何章何節というのが世界共通で決められているんです。だからどこの翻訳をとってみても何章何節は変わらない。それで何章何節と呼ぶのが規則になっている。つまり何ページの何行目といったら本の規格によって全然違うので全く分からなくなってしまうわけです。この章と節で場所を指定する呼び方になるわけです。最初にイエス・キリストの系図と題が書いてありますけれども原文にはないんです。これは勝手に編集者が作って、読みやすいようにしているだけで、原文は何章何節が書いてあるだけで、読みやすいように分けてあるわけです。1章1節の最初。アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図と書いてあり、名前が連なっているんですが、福音書を読もうと思うとこれで挫折するんです。だんだん分かってきたら誰だか分かるでしょうけれど、最初は難しいかもしれない。基本はアブラハムの子孫でダビデの子孫がイエス・キリストであるということを言っている。イエス・キリストがユダヤ人として生まれて、ユダヤ教の伝統の中で育っているので、ユダヤ教の繋がりというのを非常に大事なものではあるんです。ただこの講座では時間が足りなすぎるので旧約聖書のことはあまり話さないです。
マタイの福音書1章18節からイエス様の誕生の話が出てきて、このあたりはクリスマスくらいに読みたいと思います。重要な事としてはベツレヘムという小さな村で生まれたという事は非常に重要です。なぜなら旧約聖書で救い主というのはベツレヘムで生まれると書いてあるからです。それは重要でミカの預言に書いてあります。ただ子供時代のエピソードが少し書いてあって、その後にエジプトに避難して、マタイによる福音6章でそれからナザレというところに戻ってくるわけです。イスラエルというのは地理的に上のほうにガリラヤ湖というのがあり、下のほうに死海というのがあり二つの湖があるんです。下の横にエルサレムがあります。イエス様が生まれたのはベツレヘムといってエルサレムの傍ですが、育ったのは北の方のナザレというところです。ただイエス様の子供時代とか若い時はどうだったかはほとんど分からないです。記述がないから知りようがないですけれども、ルカの福音書の2章で12歳の頃とはあるんですが、極々少ししかないんです。福音書の本文のようになっているのが3章の1節から、いわゆる大人のイエス様からの話が中心として描かれているわけです。ルカの福音書によると、だいたい三十歳頃だといわれている。そうするとAD30年というわけですけれども、イエス様の誕生から今の西暦が生まれて、実際は少しづれているのではといわれています。この3章の1節から大人のイエス様の話が始まるのですが、一番最初は洗礼者ヨハネという人の話から始まるんです。
マタイ3章1節から12節「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。(主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。)』 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ここからお話が始まるわけですけれども、その頃というのはどの頃なのか。西歴30年くらいの頃ですけれども洗礼者ヨハネが現れた頃です。ヨハネという名前の人が現れて、ユダの荒野で活動を始めたというところから始まるんです。
そしてこの3節に「これは預言者イザヤによってこう言われている人である」とありますが「預言者」という言葉があります。これは旧約聖書からの伝統でこのユダヤ人の中で預言者という人が現れるんです。言葉を預かる、預金の預です。これは何かといったら、神様から特別に恵みを受けて主にイスラエルの民で神様が伝えたいことを、その人がみんなに伝えるという方法をとっているように、特別に何か役割を担うという人が時々現れている。神様が語ることをその人は聞けるわけです。普通の人はなかなか出来ないから。それで王様に対してとかみんなに対して神様のメッセージを伝えることを担う人が時々出てくる。この洗礼者ヨハネという人は旧約聖書からいったら最後の預言者となる。ルカの福音書1章のザカリアは祭司なんです。もう一つの役割があって、預言者以外に祭司というのがいるんです。この祭司というのは職業的な、専門的な宗教行事を扱う人で、ユダヤ人にとっては神殿で生贄をささげたりする専門の仕事をしていたような人たちなんです。洗礼者ヨハネは元々お父さんが祭司なので、当時は世襲制ですから、当然継ぐはずだったんです。ユダヤ教の中で独身制はないのでみんな結婚するんですが、祭司の子供として生まれたからそのままなるかというとそうではなくて、本人の意思だったか、インスピレーションがあったのか、祭司として神殿で務めることに対して、人間的に言えば満足が出来なかったんだろうと思います。儀式的な事にこだわったりする形で生きていくということを多分、清しとしなかったんでしょう。あるいは神様から見れば預言者として召し出されたので、全然違う仕事をしたというんです。ユダヤ教というのは祭司と預言者の二つの役割がだいたい別々でいるんです。こっちの祭司の方は宗教行事をきっちりやる仕事をするわけですけれども、預言者というのはそういう事と全く関係なしに制度化されていない、いわば飼いならされていない、もっと生き生きとしたものをみんなに伝える。だからこれは世襲制でもなければ、これだけ勉強すれば預言者になれる、というのは全くなくて、召し出されてする。ザカリアはそういうようなことで活動を始めた。だから自分の意思とも言えるし神様からの特別な恵みからともいえる。だからユダは荒野で活動を始めるわけです。祭司というのは神殿とか会堂とかで働くのですけれども、預言者というのはだいたいそういう所にいないです。荒野とか人の住まなそうな所にいたりする方が多いわけです。
4節「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 」相当ワイルドで、毛皮着ていたらチクチクして痛いのではないかと。とにかく住んでいる所も全然違うし、服装がイザヤに似ている。イザヤというのは旧約聖書の最大の預言者ですけれども。そこで彼は何をしたのかというと6節「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」ということをしてたわけです。カトリックの洗礼というものがあるんですけれども、ユダヤ教でいう洗礼とはだいぶ違うんです。何かといったらヘブライ語で言ったら「ミクべ」という水辺でやる清めの儀式なんです。元々どこでやるといったら、エルサレムの神殿でお参りする前にミクベをやって、それから神殿にお参りする。これは神道と全く同じ考えなんです。神社の手を洗うところだったり、汚れを落とすためで、その後に神の前に立つということです。ミクベというのはそのためにやっていた。他にも汚れがあったりしたら清めるのをミクベをするというんです。女性は定期的にミクベをするようになっていたんですけれども。ユダヤ人専門のホテルに泊まった時に、部屋にある案内書には、安息日に電気が点くボタンのことが書いてあり、何のことかなと思っていましたが、もう一つはミクベをする場所は、ここでこういうふうにしますとちゃんと書いてある。つまり汚れたりしたら、ミクベをしなくてはならないから、このホテルはどこでミクベが出来るかちゃんと書いてあったんですけれども、それはある意味形式的な事なんです。エルサレムでやっているミクベというのも形式的だったんですね。この洗礼者ヨハネがこの預言者たるところというのが、あるいは逆に言ったら宗教的な天才的なところというのは、ミクベの式を神殿ではやらないで、荒野でやったというところがすごい意味があるということになるんです。どうしても祭司がやることは形式化してくるんです。カトリックはその傾向があるんですけれども。罪を悔い改めて水を浴びるということを、特に神殿でやるということは、そのあと生贄をささげるからお金がかかったりして、それほどみんなの心を打つようなことではなかった。神殿で都会のど真ん中にあるような所と真逆で、荒野という、人が全く住まない所で、ヨルダン川の水辺でやったというところが、洗礼者ヨハネのすごかったところです。伝統的な宗教的行事を、本当に意味あるものとしてリニューアルして、みなさんに示したというところが、洗礼者ヨハネのすごいところ、まさしく預言者ですね。こういう発想とこのようにして。だからこのような時に人がいっぱいいたというのがよくわかります。本当はエルサレムに神殿があるんだからそこに人が行くところを、そうじゃない形でする。宗教的な何かわたしたちを本当に清めてくださる、あるいはこの悔い改めを実感できるようなところを、そのヨルダン川のミクベを、川辺でひっそりやるところを野外でです。どういうイメージかというと、インドのガンジス川でヒンズー教の人がした、あんな感じで、一人一人を水の中に沈めてそれで悔い改めをしたというのがこれなんです。そこに多くの人が集まってきたのは非常によく分かる。そこに本当の礼拝というか、そういうものを皆が感じたというわけです。でもなかなかこの人は厳しいんです。
7節でファリサイ派やサドカイ派というのは、当時のユダヤ教の中心的なグループで、ファリサイ派というのは超真面目グループで律法が大事ですという。ファリサイ派そのものはリニューアルグループだったんですけれども、イエス様の時代にはだいぶ形骸化していたんですね。サドカイ派?というのは神殿宗教の実権を握っていた、盛栄権力と結びついていたところなんですね。お金も権力もある。サドカイ派の方は神殿が崩壊するとともに滅びるんです。神殿中心だったから。権力中心だったんで後で滅びる。ファリサイ派は生き残っているんですけれども。律法を大事にするという生き方で今もあるんですが。そういう人の中でも良識派の人が来たんですけれどもすごいですよね、その人に対して。7節「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 」本当の悔い改めを迫るわけですけれども、この「差し迫った神の怒り」とは何なのか。終末思想というのが流行っていたんですね。世の終わりがもうすぐ来るというのが当時のユダヤ人の考え方だったんです。なんでみんなが終末思想を考えていたかといったら、現実があまりにも厳し過ぎたんですね。今のイスラエル教会は羽振りがいいから、パレスチナ人とか迫害していますけれども、でもユダヤ人の歴史の方は、どっちかといったらパレスチナ人の側だったんです。いつも迫害されていて大きな国からやられていたんです。一番最近だったらナチスにコテンパンにやられたんですけれども。だから現実的に希望を見出すことが、長い間出来なかったんです。そうすると段々未来志向になって、そのうち世の終わりが来ると。終わりが見えたら善人は喜ぶわけですね。ユダヤ人の苦しみは何かといったら、真面目にやっているわたしたちが何で苦しまなければならないのか、ということだったんです。だからそれは裁きの神様が世の終わりにあって、裁いてくれたら善人の人にとっては助かるわけですよね。真面目にやっていた分、報われるから。でも神の裁きが来て困るのは誰かといったら罪人なんですね。罪人にとって裁きは神の怒りなんです。悪人が裁かれるわけで、善人は報いを受けてですから。それでこの「差し迫った神の怒り」と言っているのは世の終わりの罪人に対する裁きのイメージなんですね。
10節もすごいですね。「斧は既に木の根元に置かれている。」だから木が切り倒される寸前まで来ているからということです。神の裁きで、たとえば自分のことを振り返って、分かるわけですよね。律法をきっちり守っている人は裁きが来ても恐ろしくないわけです。善人は救われるので。でも自分のことを振り返ってどっちかというとマイナスが多い、つまり罪の方が多い人は裁きが来たらとにかく困るから、それで洗礼者ヨハネのようなところで悔い改め洗礼を受けるわけです。少なくともそこで赦されて償いでも果たしたら、何とか最後の裁きに引っかからないんじゃないかという。罪を犯さざるを得ないのは、だいたい貧しい人です。罪というより律法を守れないのは。ユダヤ人は食事する前に必ず清めのために手を洗わなければならない。ユダヤ人にとっては清めはすごく大事です。だからイスラエルに巡礼に行ったら、ユダヤ人専門のレストランには店の前に必ず手を洗うところがちゃんとついているんです。そこで手を洗ってお店に入って食べるということなんです。でも考えたら今の時代ではなくて、昔だから水ってすごい貴重なんです。水で手を洗えるっといったら、元々貧しい人は無理なんです。クリスマスに出てくる羊飼いたちは、律法が守れないんです。野宿していて綺麗な水で手を洗って食べるというのは、なかなか難しいから、律法が守れないのは貧しい人で、だいたい守れない。でも神殿に行って罪を赦してもらうには、生贄をささげなければならなくて費用もかかり、それも出来ないから、だから洗礼者ヨハネのところで、心からの悔い改めと水を浴びようという気持ちで。だから洗礼者ヨハネは神の恵みが働いていた。みんなに本当に助けになったものだったということです。それはほぼ間違いないと思います。そこにイエス様が来るというのも共鳴しあうところもあったと思います。だから洗礼者ヨハネというのは、完全にユダヤ教の神殿宗教というか、エルサレムの人にとってとか、ユダヤ人にとって、エルサレムの神殿は命の次に大事な場所なんです。それに対するアンチテーゼで、預言者ヨハネは全く違うかたちでリニューアルさせているというところが、とにかく非常に面白い点なんですけれども。そこにイエス様が来たんですよね。洗礼者ヨハネもすごいけれども、桁違いで凄いのもイエス様ということになるんです。
それが3章13節からです。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」このマタイ、マルコ、ルカの最初の三つを「共観福音書」といって、とても似ているから共観福音書というんですけれども、三つとも大人のイエス様の登場はここからなんですね。洗礼者ヨハネから洗礼を受けるところから登場する。だからこの洗礼者ヨハネの洗礼運動に、何らかの形で共鳴して、北のガリラヤのナザレから。ヨハネのいるところはユダヤの荒野なので、ヨルダン川の下流の方です。かなり下ってきてそれで洗礼を受けられたというんですけれども。洗礼を受けに来た人々は、ほとんどが罪人や貧しい人だったんですけれども、その列に並んでイエス様が洗礼を受けたというのが、イエス様らしいという感じがしますが。ヨハネが思いとどまらせようとしたところもあるんですけれども。とにかく洗礼を受けたと16節ですね。洗礼というのは水に沈めるというかたちですね。プロテスタントのとある派は、浴槽があって頭を沈める。カトリックは額だけにちょっと水をかける。「すぐ水の中から上がられた」その後が突然「天がイエスに向かって開いた」とよく分からないことになるんですけれども。当時の考え方ですけれども、天ていうのは閉じているんですね。空で閉じていて、天の上が神様の世界なんです。天のこちら側が人間とか動物とか被造物の社会で閉じているんです。ついでに言うと当時の考えは閉じている、こちら側に水のタンクがある。水のタンクを開けると雨が降って、タンクを閉めると晴れるというような構造で考えていたんですけれども。とにかく上が神様の世界で、人間の世界とは隔たっている。でもイエス様が洗礼を受けた途端これが開いたという。ここにイエス様がいたら「神の霊が鳩のようにご自分の霊に降って来るのを御覧になった。」鳩のようにというのはどういうようにということですが、ある神父様と議論して結論が出なかったんですが、私のイメージでは一羽だけではなくて、鳩が何十羽も飛び立つ感じで、よくある絵などは鳩が一羽なんですけれども、そうではなくて、聖霊の恵みが滝のように来たんではないかと、つまりこれは神様の世界が突然開いたんだから、神様の恵みが滝のようにドッとイエス様のところに注がれたということだと思います。その上、御父の声がして「これはわたしの愛する子」という声がしたわけです。父なる神様ですけれども。「わたしの心に適う者」と書いてありますが少し訳が固い気もします。普通の日本語で言ったら「お気に入りの息子」ということなんですけれども。その「声が」ですがこれは神様の声なんですね。人間の声ではないんです。人間の声は消えていくものである。何か聞いても記憶に残ったり残らなかったり。ミサの説教で神父様の説教も、だいたいミサが終わるころには覚えていない人も多いでしょうけれども、人間の声だから残らないんでしょうね。神様の声なんだから全然違うんですよ。神の声というのは英語で言うと「Substantial locution」実体化的な言語というんですけれども、簡単に言うと言った通りになるということ。神の言ったことはそうなるということ。創世期の初めに「光あれ」といったら光が出来るんですよ。神の声というのはそうなることなんですね。だから愛する子だといったのはお世辞で言ったのではなくてそういう存在にある意味なったということなんです。そのものであるということなんです。人間の比ではない。例えばほかの例で言うならイエス様が病人に向かって「清くなれ」と言ったら清くなるんです。つまり癒される。なんでかと言ったら神の言葉だからなんです。人間が人間に向かって清くなれと言ったって清くならな〜いでしょう。ただの人間の言葉だから力が無いんですよ。でもイエス様の言葉は本当の神の言葉だからそうなるんです。だから癒されたりするんです。だからここでいうのは徹底的な神の言葉というのは本質的にそうだということなんです。これがイエス様のいわば救い主として活動する原点にあるわけです。だから教祖様のいる宗教というのは、だいたい教祖様が特別な体験をされたところから始まる。お釈迦様だったら菩提樹の木の下で悟りを開いたというところから始まるんですね。悟りをみんなに伝えたいから仏教が始まったわけです。天理教だったら中山みきという人が神懸かりになって特別に感じたりしたことをみんなに天理教が伝える。イエス様の場合はこの体験の内容を伝えたわけです。体験の内容は何かと言ったら普通の言葉で言ったら、神様はわたしたちを愛していると。それはお世辞ではなく。実際にイエス様が悟ったことはそれが本質だと思います。この後、イエス様は活動を始めるわけですけれども、イエス様のメッセージはただそれだけを語っている。あるいは、病人を癒したり様々なことをするんですけれども行いも、神は愛であるだけを表わしている。だからこの体験にほとんど全てが凝縮されているんです。そしてクリスチャンとして生きるというのは、あるいは洗礼を受けてクリスチャンになるというのは、私自身もこういう存在として生きることが出来るという、保証が与えられたということになるんです。だからこの天が開く、開く閉じるだと分からなくなりますが、これが一つの表現と考えたら、何がわたしたちにとって閉じているのかといえば、それはわたしたちの意識が閉じているんです。わたしたちの存在の、あるいはわたしの魂が、それが神様の世界から閉じているのがわたしたちの残念なあり方になるんです。つまり神の恵みがありながら、それに触れないで生きている。わたしたちの生き方が、それこそが閉じている。もっと言えばわたしたちの意識が殻に閉じこもっている。それで殻の中で悩んだり苦しんだりしている。だからわたしたちがキリスト者として生きることは、そこが抜けていて、神の恵みが注がれていることに気づいて、それを生きているということが、クリスチャンとしていることの全てなんです。愛されていて恵みを受けている存在であって、その中で生きている。それを生きるだけでわたしたちはOKだということです。だから日本語で底が抜けている人という表現がありますけれども、クリスチャンでは天が抜けている人ですね。天が抜けて神の恵みが滝のように降ってきているということに気づいて、その恵みを生きれる人だということなんですね。ただ残念なのは人間の愚かさなんですけれども、ついついいつのまにか天を閉じちゃうんですよ。神の恵みを与えられていることを忘れて、神に愛されていることを忘れて、自己完結しようとしてしまうのがこの世的な生き方で、ついつい戻ってしまう。わたしたちは恵みの世界の中で生きていくということを、みなければならないといいうことです。
ヘンリ・ナウエンというオランダ出身のカトリックの司祭で、主にアメリカで活躍していた方で、彼の本に書いてあったのは、すごく大きな問題を抱えていて、複雑で解決困難で、マザー・テレサに会った時に、その問題を言った。それを聞いたマザーが「大変ですね。あなたのためにお祈りしましょう。」と言った途端、彼の言葉で言うと天が開いた、恵みが降ってきて問題が消えたそうです。悩むと天が閉じてしまうから、忘れてしまうんですけれど、ある時ぱっかり開いたら、恵みの世界なんです。晴佐久神父様も書いてあって、神学生の頃すごく悩んでいて、鬱々と悩みの中にいて、それが何かのきっかけでパカンと開いたそうです。そうしたら悩んでいることが馬鹿々々しくなって、ハッピーになった。わたしたちも開かれた意識の中で生きている人だということなんです。その恵みの中に歩んでいる存在だということです。ほとんどそれだけが、わたしたちにとって大切なことだというふうに言えるんではないかと思います。イエス様は完全に開いたからでしょうけれど、ただわたしたちはなかなかそこまで行けないんで、恵みが少しかもしれないけれど、でもわたしたちはその恵みで生きている。それに招かれているんですね。イエス様が愛されている悟りに、わたしたちも招かれている存在だということです。だからクリスチャンとして生きるということは、この恵みの世界に生きていくという、ただそれだけですね。それ以上でもなければ以下でもない。でも何とかその世界に深めきれないところがあるわけです。でもわたしたちがその恵みの世界を生きれるように少しづつこの講座で学んでいったらいいと思います。
一つこの箇所で疑問なのは、イエス様はなぜ洗礼を受けたのか。洗礼者ヨハネも「思いとどまらせようとした」と言っているくらいですから。なんでかと言ったらこの洗礼というのは、罪の清めのためですよね。悔い改めのためですけれども。でもイエス様は罪を犯さなかったから、悔い改めを責める必要はないんですよ。なんで受けたのかということです。この理由はたった一つで連帯。自分は罪を犯さなかったけど、罪を犯した人々と連帯するために洗礼を受けたといいう理由しか考えられないんです。そうすると水に沈むというのは最終的にはイエス様の十字架に繋がるんです。水に沈むというところが古い自分に死ぬというところと、深く繋がっているからです。だから16節「すぐ水の中から上がられた」ということと、「復活する」といううことが同じになるわけです。だから天が開いたというのは、イエス様の十字架の恵みと復活によってということに最終的にはなってしまう。基本的には復活の日に洗礼を受けるわけです。イエス様の十字架と復活によってこそ天が開いたわけです。天が開いた恵みに洗礼を受けることによって、預かったわけですね。こういう神秘的な体験をされるのは、イエス様しかいないかもしれないけれど、わたしたちはそれに預かるように、恵みをいただくということがあると思います。それを簡単にみると4章1節からこの後、誘惑を受けるという不思議な体験されるんですけれども、極々簡単にいったら、神の愛に反するものと直面したということです。神の愛に反対するものの誘惑を受けて、それを退けたということです。これがもう一つのわたしたちに対する福音です。それによって4章12節からガリラヤに退いてそこから彼は新共同訳には伝道を始めると書いてあります。カトリックでは宣教するといいます。メシアとしての活動が始まるわけです。
メシアとしての活動の第一声は何かというと、マタイによる福音4章17節「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」第一声は「悔い改めよ」と「天の声は近づいた」マタイでは「天の国」という言い方をするんです。マタイの福音がユダヤ人相手に書かれているということもあって、ユダヤ人は神という言葉をなるべく使わないんですね。だから神の代わりに天という言葉を使う。他の福音書には「神の国」と書かれていて、天の国といっても同じ意味なんです。「天の国が近づいた」というのは天が開いたのだから、神の世界がわたしたちに開かれた。だからわたしたちに恵みがどんどん近づいて与えられていると。だから悔い改めよは何かというと、神の恵みに心を向けることですね。地上の世界に捕らわれているわたしたちの視線を、神の恵みの方に向き変えるということが、悔い改めなさいと、つまり生き方を変えなさいと。神の国が近づいているから、近づいている神の恵みに合わせて生きるように呼びかけられている。そのように生き方を変えなさいというのは、イエス様のマタイの場合、第一声がそうなうるわけです。この言葉はマタイの福音書では、洗礼者ヨハネにも全く同じことが書いてあるんです。
3章の2節「悔い改めよ。天の国は近づいた」全く同じ言葉なんですね。でも洗礼者ヨハネというのはどっちかというと「天の国は近づいている」というのはさっき言った神様の怒りが近づいたというイメージがする。だから滅びないよに、罪を捨てて生き方を変えなさいという、悔い改めなんですけれども、どっちかというと恐ろしさからいっているわけです。同じことをいっているけど、イエス様は全く違うんですね。神の恵みが近づいているからそちらの方にと。神様の裁きが近づいているから、裁きを招かれるためにいっているのと、全く違うんですね。これも大事なポイントではないかと思います。洗礼者ヨハネも素晴らしいけれども、イエス様の素晴らしさに比べたら色褪せてしまうということになってしまう。例え洗礼を受けていても、恐れに捕らわれている人というのは案外多いんですね。罪を犯さないようにとか、罰せられるんではないかとか。それは本来的ではない。わたしたちは本来神の恵みに生きるようにできている。神の罰から逃れるような生き方を必死にするだけではない。わたしたちの生き方の基本は、怒りとか恐れから来ないほうがいいわけです。むしろ恵みの世界に対する開かれた心で生きるように、わたしたちは呼びかけられている。これは大いなるお恵みではないかと思います。この悔い改める。天の国は近づいた。ということは少しづつこの講座の中でみていきたいと思います十

 

2016 年 4 月 11 日(月)
 第一回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記