カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-04-18 入門講座2無条件の愛

英神父 入門講座2 無条件の愛

 今日はマルコによる福音書をみたいと思います。新約聖書の最初がマタイの福音書で、二番目がマルコによる福音書になります。福音書には四つありますが、マルコが一番短くて、一番古くから書かれているといわれています。マルコの1章9節でイエス様が洗礼を受けるところが描かれています。天が開くとマタイにはあるんですが、マルコでは「天が裂けて」という強い言葉になっていますが、天が裂けて霊がイエス様の元に降ってきて、父なる神様が「あなたはわたしの愛する子」という声がしたということです。「愛する子」と言っているのは神様のお父さんということで、いわば親子関係にたとえて、神の愛を語っているともいえる。神様の在り方というのは、人間関係の何かからしか、比喩的にしか、わたしたちは考えられないんです。そうしてみるのを、アナロジアというんですけれども、何かにたとえないと分からないわけですよね。神様の愛を人間的な愛にたとえて、一番それに近いのは、親の子供への愛なんですね。どういう特徴があるといったら、親が子供を愛するのは基本的に無条件で無償であるからですね。たとえば夫婦関係にしろ友情関係にしろ、ある程度ギブアンドテイクのような、してもらったからするような、相手に期待するようなことが出てくると思います。でも親が子に対する愛というのは基本的には一方的のような。出来のいい子は愛して、出来が悪いから愛さないというのは、普通はそうしない。出来が良かろうが悪かろうが、だいたいその子のありのままを愛するのが、親の愛の特徴だと思います。もちろん例外もありますけれども。だから親が子供を愛するようなそのような愛し方で、神様が人間を愛しているということを、イエス様はここでよく分かったと言えると思います。神様がわたしたちを愛する愛は、無条件的であり無償である。出来がいいから愛して、出来が悪いから愛さないということは神様はしない。社会は成果主義とかあるから。評価される、されないがあるけれど、神様は全くそうじゃないという、そこが中心的な一つのメッセージになるわけです。親から愛情を受けられなかった方もおられるでしょうけれど、親も欠点があるから完璧には出来ない。でも神様の愛は、そのようなものとして降り注いでいるということですね。それがいわばイエス様の悟りというか、わたしたちの出発点の基本にある考え方だと思います。
12節からサタンの誘惑を受けて、それを退ける。誘惑を受けただけではなくて、ちゃんと退けたことが大事なんです。マルコの福音書では、1章14節からイエス様の活動が開始されます。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。 」マタイと同じで「ヨハネが捕らえられた」ヨハネはヘロデ大王に、色々きついことを言ったので、逮捕されてしまうわけですけれども、ヨハネが捕らえられたというのは、象徴的な意味で、旧約聖書の時代が終わったという印象ですね。旧約の最後の大物、洗礼者ヨハネが活動停止になったところで、イエス様がいよいよガリラヤに行って、神の国を延べ伝える、宣教というか活動を開始されるわけです。改宗の時の言葉が印象的ですね。15節「時は満ち、神の国は近づいた」時は満ち、神様の恵みを与える時が来た。あるいはイエス様が活動する時が来た。いわば人類にとって大切な時がいよいよ来た。神の国が近づいた、それは洗礼の時にイエス様が天を開いて、神の恵みがわたしたちに注がれるからこそ、神の国が近づいたと言ったからです。「悔い改めて福音を信じなさい」これが第一声になると思います。悔い改めてということですけれども、ヘブライ語では、テシュバーというんですが、基本的には「立ち返る」という意味なんです。立ち返りなさいと言っておられる。本当の自分に立ち返る。あるいは外れている考えから立ち返る。あるいは神様から離れても神の元に立ち返ると言えるでしょう。そしてその次は「福音を信じなさい」つまり立ち返って福音を信じなさいということです。では福音は一体何なのか。福音は幸福の福に、音と書くわけで、これは多分、明治時代の人が考えたんだと思いますけれども、なかなかいい翻訳という感じがしますが、ギリシャ語でいったら、エヴァンゲリオンなんですね。英語でいうとgood news「良い知らせ」ということを、幸福の福に音と書いたわけで、わたしたちに対して、良い知らせ、良いnewsをイエス様がもたらして、それを信じなさいと言っているわけです。何が福音かということですが、マルコの福音書をみたら明らかですけれども、この中で当てはまるのはたった一つ、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」神様の恵み。神の愛そのものが、わたしたちに注がれているということが福音、良い知らせと考える以外にないと思います。そしてもう一つのポイントは、それを信じなさいと言っているというところです。福音そのものが、神の愛そのものが、この一年の間に少しずつでも分かってこられたらいいのではないかと思います。少しづつ理解出来たり、そうだなと思えたらいいと思います。
もう一つ何かと言ったら、信じるということなんです。みなさんは何を信じて生きているのか。たとえば、この講座に来ている方々は、どちらかというと、神様やイエス様に興味があるから来られていたり、信者だから来られているわけですけれども、世の中には神を信じることは、馬鹿々々しいと思っている人が山のようにいる。二千年前に死んだ人を何で信じるかとか、非科学的なものとか、何とか、やっぱりあると思います。信じている人は頭のおかしい人というように、考える人もいっぱいいると思います。でもそのように言っている人が、何を信じているかというのも、案外滑稽な人が多い。どうでもいいものを案外信じている。たとえば見えないものを信じないで、見えるものを信じているとしたら、結局お金によって自分たちは幸せになるとか、あるいは世間的に評価されたり、成功することで幸せになるということを信じている人は多いと思います。それはわたしからみたら、馬鹿々々しいものを信じているようにみえますけれども。つまり消えるものを信じたってどうするのかと思います。どうせ死んじゃうんだからと思いますけれども。人間は何を信じているのかというと、大事なことで、本音で目に見えないものを信じないとしたら、目に見えるものを信じるというのは、わたしにすれば、浅はかな知恵というか、どうせ目に見えるものが消えてしまうわけですから。そんなものを信じ足るのかと、個人的には思います。では何を信じているのか。あるいは若者だったら、多いんですが、自分は駄目な人間だと思っている人が多いんです。自信がないとか、それも信じているだけで、本当にそうかどうかはまた別物なんです。イジメられたとか、成績が悪かったとか、もちろんきっかけはあるかもしれないけれども、でもそれは信じるに足るものかどうか、多いなる問題。そういうことを信じている人は山のようにいて、それで苦しんでいるんですね。それと時々出会うんですが、自分は世界一不幸だという人がいる。世界で一番不幸だと信じているんですよね。もちろんそれは大きな問題を抱えているからでしょうけれど、世界一、不幸かどうかは、つまり自分の人生は全く良いことがありません、とか言っているんですけれど、それは信じ方が全くずれているんではないかと、個人的には思います。少し話してみると良い家に住んでたり、それなりに恵まれているところがあるんだけど、自分の恵まれているところが見えないんですよ。問題だけで自分の視野が全部真っ黒なんですね。真っ黒にしているのはあなたのものの見方がそうしているだけで、問題はないとは言えないけれども、何を信じているかというのが問題ですよ。その人の信じ方、ものの見方も合わせてですけれども、あり方そのものがどうなのかとういう、何を信じるのかの、何を、が大事なので、イエス様は福音を信じなさいと言っているわけだから、神の愛が目に見えないからと、神の愛が現れているところはあるわけだから、それを信じられるかどうかとは、案外大切なポイントになるんですね。天が閉じている、向こう側が神様の世界で、こっち側が人間の世界で閉じているけれど、イエス様が洗礼を受けて天が開いたわけです。「愛する子」という神の恵みが来た。神の愛、これが福音にそのまま置き換えられるのではないかと思います。天が開いて、神の愛が降り注いでることを認めなかったら、無駄になってしまう。神様に立ち返るとか、神様を信じるとかいうのが人間の側からすることは少なくとも受け入れる、あるいは立ち返る。神の恵みを信じることで、やっと循環できるようなことになるのではないかと思います。では一年をかけて何を信じて、何を信じたいのかですね。信じて生きるというのは、どういうことなのかということが、少しずつ何か自分の中で分かるというか、そうだな、そうしたいなという気持ちが、湧いてこられたらいいのではないかと思います。だからこの「悔い改めて福音を信じなさい」ということは、根本的なイエス様のメッセージを、凝縮したならこうなると言える言葉だと思います。
イエス様が実際に活動を始められるのは1章の21節からと言えると思います。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』 イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」この「一行は」というのは弟子にした何人かがいるわけですけれども、ペトロとかアンデレですね。イエス様の初期の活動は、カファルナウムを中心にして行われます。これはガリラヤ湖畔の町で、今も遺跡としては残っているんです。イエス様はナザレという内陸の方で、歩いたら一日がかりのところで過ごしていたんです。いよいよメシアとして活動を始める拠点はカファルナウムで、多分シモンの家とかがあったところではないかと思います。そして「安息日に会堂に入って」安息日って何かといったら、土曜日のことなんです。ユダヤ人は土曜日が週の終わりの日で、最後の日が休みの日だったんですね。それは創世記の一番最初に神様は六日かかって世界を創造され、七日目は休まれたと書いてあるので、そこから週の最後の日は休む日になって、安息日ということなんです。
イエス様が復活されたのが日曜日だったので、ユダヤ人の安息日の土曜日から、カトリックの日曜日の休みにずれていったんです。ユダヤ人は今でも土曜日が休みです。休みの日は何をするかといったら、クリスチャンと一緒で教会に行くように、ユダヤ人は会堂(シナゴーグ)に行くんです。エルサレムに神殿があって、家から離れていたら神殿に行けないですから、各村々に会堂があったんです。何をするかといったら神殿でしか生贄をささげることが出来ない。だから会堂では聖書を朗読して、説教を聞いたり、お祈りをささげていたんです。カトリックの聖堂は神殿と似ているんです。生贄をささげるような。プロテスタントの礼拝堂が会堂によく似ている、聖書の朗読とその説教なのだから。ついでに言うと神殿が無くなっても会堂があったからユダヤ教は続いた。会堂と聖書、トーラーという大きな巻物のような物です。そしてユダヤ教は土曜日の午前中に会堂で礼拝をささげるんですけれども、そこにイエス様が「教え始められた」とあります。当時の会堂はゲストの人も、話す時間があったんだろうと思われます。今のカトリックは説教するのは神父だけで、プロテスタントもだいたい牧師先生だけだと思います。この時イエス様はただの人であった。少なくともここで説教をしたんですね。簡単な挨拶だったかもしれないけれども、本当はラビとか律法学者が話すんですが。そうしたら「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。これは衝撃的なイエス様のデビューなんですね。なんでかというと「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあるので、これは多分、律法学者の話が面白くなかったんだと思います。そういうときの話は面白くない方が多いというか。一般的につまらない説教だったんだと思います。でもイエス様の話だけは特別に凄かったという。それは神の恵みの福音。これを生きた言葉としてズバッと語ったから、みんな聞いただけで心が震える、揺さぶられるような。だから神の権威として語っている。イエス様の言葉はまさしく神の言葉ですから、心が揺さぶられるぐらい感動的な驚くような衝撃だったと思われます。
イエス様が語った言葉が、福音という感じでみんなの心にものすごい励ましのような力づけを感じたと思うんです。そのあと23節「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 」汚れた霊というのは、サタンか手下か悪霊のようなもので、現代的に言うと、一種の精神疾患か何かである、そういう人が混じっていたと。そうすると男が叫んで「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」我々というくらいだから、いっぱい憑いていたんだと思いますけれども。「正体は分かっている。神の聖者だ。」イエス様はその霊を責めているわけではないけれど、神の愛の世界が来ると、こういう悪いものは苦しいんですよね。だからいたたまれなくて、悪霊が苦しみながら叫びだしたようになった。そうしたらイエス様が「黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 」ということです。だか神の愛の恵みは、本当の意味で悪いものと両立しないですね。イエス様の言葉には権威がありますから、言葉だけで悪いものが退散したというんです。ここにいた人は衝撃的だったと思います。これがイエス様の活動のほとんど全てなんです。一つは福音の言葉で。もう一つは病人を癒したり、行いを通して実際その人を助けたという。これでこの人を悪霊から解放されて、癒されたと思いますけれども。それを目の当たりにしたということですね。だからイエス様の最初の登場がどれ程衝撃的だったのかと思います。ついでに言うと、このカファルナウムに会堂の遺跡があるんです。石造りだから残っているんですね。それでも「人々は皆驚いて、論じ合った。」ということで、教えが素晴らしいということと、悪霊すら従うんだということです。だからイエス様のことばと行いの両方が、極めて特別だったということです。ついでに言うと悪霊というのは人間よりも頭がいい。何でと言ったら霊的な存在です。だから人間はイエス様が誰だかまだ分かっていない。悪霊の方が先に分かって、正体は分かっていると言うわけですから。イエス様と戦いすらせず、最初から逃げていく感じですから、悪に対してどれ程イエス様が強い力を持っているかということも、明らかに示されたと言えるだろうと思います。そして29節で、シモンの家というのはすぐそばにあるんですね。カファルナウムの今の遺跡でも、会堂から歩いて少しの所にシモンの家があるんですけれども、そこで姑や他の人々を癒した。だから病気を癒されたから、イエス様のところに多くの人が来たんだと思います。35節、イエス様はカファルナウムだけではなく、周りにも行こうということで、巡回というかたちで巡り歩くことになるんです。イエス様の純粋な活動期間は3年半ぐらいだと言われていますけれども、旅行しながらあちらこちら行きながらということで延べ伝えられた。その内の一つのエピソードとして40節「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」イエス様は多くの人を癒されたんです。もちろんいろんな解釈があって、たとえば遠藤周作が、イエス様は病気を癒さなかったという意見もある。こういうところを読む限り、あまりに病気の人を癒してたので、評判になったので聖書に描かれている。1,2件だったら偶然かもしれないが、癒している量が半端ではないんです。この後にもその話が続くのでそれを否定すること自身が不可能だと思います。神の愛の恵みがあまりにイエス様にたくさんあったので、病人をどんどん癒していったのは事実であるわけです。これもその内の一つの話ですが、重い皮膚病ということですね。これは差別のことがある。これは原文的には明らかにハンセン病です。この人が1章40節「イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』」と願ったわけです。そして「イエスが深く憐れんで」の「憐れんで」というのが神様の思いとして表される有名な言葉です。カトリック信者の方はご存知だと思うんですけれども、2015年11月から「慈しみの特別聖年」が始まったんですけれども、その「慈しみ」と同じことばがこれで、ラテン語ではミゼリコルディア。ギリシャ語はスプランクニゾマイ。ヘブライ語ならラハイームという言葉なんですけれども、慈しみという意味だと弱い。深く憐れむという、強い強い言葉なんです。どういう感じかといったら、お腹から痛む、相手の痛みを感じて痛みを共感するという感じです。ヘブライ語ではラハイーム、へエブライ語は語根というのがあって変化させている。ラハイームは憐れむという言葉の語根はレヘムで子宮なんです。子宮から痛むという意味なんです。特に母親が子供の苦しみを痛むという、子供が病気に対して母親が心を痛めるという意味なんです。だからこの皮膚病の人を見て、イエス様はそのような痛みをお腹の底から感じたということなんです。実はわたしは男からしては、お腹から痛むというのがあまりピンとこない。感覚でよく分からない。心が痛むぐらいなら分かるけれど、お腹から痛むというのはもっと強いことばなんです。神様の愛というのはそのような愛なんです。何となくお恵みをというのではなくて、人間の痛みをそのまま痛んで、そこで何かしたいというような、強い強いことばで神の愛を表わされているんです。それをイエス様が病人に対して感じて、それがイエス様の原動力になったと思いますけれども、その後が驚くべきなんです。「手を差し伸べてその人に触れ」たというんですけれども、これは驚きます。聖書で「重い皮膚病」と書かれていますけれども、重い皮膚病の人に触れたら絶対駄目なんです。それは感覚的にもそうですし、律法的にも駄目なんです。レビ記の13章3節から、祭司がどのようにチェックするか細々と書いてあるんですけれども、一過性の皮膚病もあるわけです。治ったりしたらいいのですが、治らず治っていない間は祭司が汚れていると宣言して、共同体の外へ住まなければならないんです。基本は衛生上の問題です。人にうつったら困るからと思います。しかも他の人にうつしては駄目だから、13章45節「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と周りの人に知らすために言って歩かなければならない。だから近寄ることすら駄目なんです。その人にイエス様は「手を差し伸べてその人に触れ」たというんだから、これは完全に律法を破っているんです。律法どころか人間の常識を破っているとも言えると思います。
今の日本では治る病気です。元ハンセン病の方しかいない。戦後の新しい薬によって完全に治るんです。元患者の方々もだいぶ高齢化してきています。特効薬がないとどうなるかと言ったら、表面の皮膚組織がやられるんです。でもそれにイエス様が触れたということは、それだけで周りにいた人も驚いたと思います。皮膚病の人も驚いたと思います。つまり汚れているものに、神様から自ら触れるということですから、普通の宗教的な感性とは別で、汚れたものは神様から遠ざけなければならないというふうに、心の中でわたしたちは考えがちなんです。つまり汚れているものを神様の前へ持っていくということは不適切なこと。お参りする前に手を洗うのは、汚れを落とさないといけないというふうに、みんな心の中でそのような気持ちがあるからなんです。ある意味宗教的なセンスなんです。だからイエス様は多くは汚れたものに触れるんだから、だからお恵みというか、だから福音というか、信じられないという感じがします。本当に驚きだったから、このエピソードが記されているんです。あまりに凄かったんだと思います。何で触れたがらないかといったら、自分の方にうつるからなんです。でも神様の力が溢れているから、汚れがうつるどころか、汚れが追い出されてしまう、これも信じられないことになった。これが神の愛の現れ、行いとして現れてくる神の愛のしるしが現わされているお話だということです。これはたまげるようなお話だと思います。でもイエス様はその人に44節「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」これは無理でしょうが「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」これはレビ記14章からなんです。皮膚病が治った時には、当時は祭司がOKを出したら清めの儀式をして、共同体に戻れるんです。放逐されてたというか、共同体の外に住んでいたものが、共同体の中に戻ることが出来る。それがこの人の癒し、救いの恵みであったろうと思います。日本でもヨーロッパでもどこでも、ハンセン病になったら完全隔離ですね。どれくらい差別されたか。名前も奪われて、完全隔離で山奥の施設に送られていたわけです。日本だったら鈴つけて鳴らして、人々が近づかないように「わたしは汚れたものです」と言いながら歩かなければならなかったというんであるから、どんなすごい差別だったか想像を絶します。イエス様がその人に触れて癒されたということです。今はハンセン病は治る病気ですから、もちろん問題ないと思います。
今のパパ様は神の愛を生きている方で、病人とか一般謁見とかいろんな信者さんに会う時でも、病気の人と握手したり、言葉をかけたりするんです。youtubeで見たんですけれども、あるイタリアの男性が、神経線維腫症という難病で皮膚が完全にやられている。一般謁見でその人をパパ様が抱きしめて額にキスして、その人は号泣した。パッと会った人が伝染性の病気かどうか分からないのに、パパ様は全く躊躇なしにその人を抱きしめてキスまでした。わたしたちはどちらかと言ったらレビ記の世界でしょう。清いものは清くて、汚れたものは汚れているから、蓋をして交わらないようにしましょうとかですね、別々にしがちというか、罪深い人は、汚れているから神の前に行けないとか。神の前に行けるのは清くて立派な人しか行けないとか何とか、レビ記を読むとすごいですけれど。この食べ物は清い、これは汚れている。タコ、イカは駄目ですから、色々あるんですけれども。やはり人間の考えですよね、差別して、こっちはいいけれども、こっちは駄目とか考える、人間の心の中にある一つの暗闇の世界だと思います。全くそれを超えて、神様は触れてくださって、触れるだけでなしに癒して、汚れたものを清めてくださるから、常識を超えているようなお話だと思います。だから福音なんです。神の恵みがどんな人にでも、むしろ罪人とか病人にこそ神の恵みが現れるというかたちで描かれているわけです。パパ様はその通りに実践されているから凄いわけです。普通の人にはなかなか実践出来ないけれども、そのような恵みの世界をイエス様は身をもって示されていると思います。
2章1節から中部の人を癒す「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。 『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」イエス様は近隣の村や町を回って拠点であるカファルナウムに戻ってきたんです。多分シモンの家で、そこににおられると有名人なっていて、大勢の人が集まってきて、戸口の辺りまで隙間もないようになっていて、イエス様は御言葉を語っておられる。当時の家は日干し煉瓦で造っていて、窓も戸口も狭い。ちょっと人が集まったらいっぱいで通れなくなったんだと思います。だからここに中部の4人が男の人を運んで来たけれど、人がいっぱいで入れなかった。担架そのものが入れなかったかもしれない。中部の人というのが何かの病気で歩けなかったんであろうと思います。「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」とあるんですけれども、聖書の中で群衆というのはだいたい悪い意味なんですね。世間体とか、世の中の流れとか、大衆心理とか、だから群衆に阻まれてイエス様の所に行けないというのは、何となくわたしたちの現実を語っている、つまり神様の恵みの世界があるんだけど、群衆というのはこの世の流れ、この世の考え方に妨害されていて行けない。やっぱりお金が大事だとか世間体が大事だとかそういうふうな事になりがちなわけです。でもこの人たちはどうしたかというと、2章4節「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」日本の家屋では無理ですね。当時のその地方はあまり雨も降らないから、屋根はナツメヤシの葉で屋根を葺いたりした簡単な屋根だった。それでも大したものだと思います。屋根を剥がしてまでつり降ろしたという。それで5節「イエスはその人たちの信仰を見て」問われているのは信じる、この場合は名詞になって信仰です。前にお話しした天が裂ける、似ているのは天井を破るですね。塞がっているのを破いてまで降ろしたので、しかも4人の協力体制でやっている信仰です。神の恵みと信仰というのは連動している。信じるとか信仰とか。1章40節「イエスのところに来てひざまずいて」ですからイエス様のところで立ち返って、信じるという態度で表しているんです。そこでイエス様の心が動かされて、「よろしい、清くなれ。」ということになったわけです。この4人はチームプレーですね。中部の人自身に信仰があったか分からないけれども、その人たちの信仰は複数形で書かれていますから、みんなと協力することによって屋根を剥いだという、わざわざ穴を開けて、そこに神の恵みが働きましたということになるわけです。
わたしたちが信じるというときには、何かこの世の考えとかではない、わたしは信仰のジャンプと呼んでいるんですけれども、なんでジャンプかというと、ザーカイが木に登るとこからなんですが。信じるというのはどこか、わたしたちが普通でやっているこうだからこう、とかではない、福音や神の恵みを信じていく、何かこう能動的な、積極的な行動的な心の態度とその工夫みたいな、しかも誰かと協力しながらやるということも入っているわけです。そこで天井を破った、神の恵みがイエス様を通して働いたということに繋がっていく。この人の問題は、本当は赦しなんです。「あなたの罪は赦される」癒しではなく赦しの方が根本だっただろうと思われます。結局は癒しをされるわけですけれども。だから神の愛や福音が、如実に表れているのが癒しと赦しなんです。この中部の人は癒しと「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」の体の癒しの両方を与えられた。このようなかたちで神の恵みが働くわけです。
イエス様のデビューというか、衝撃的だったと思います。想像を絶する、言葉にも行いにも驚いたし、神の愛がどんなに凄いかと、イエス様を通してあらわれたという。だからわたしたちも神の愛と福音がどんなに凄いのかと味わいながら、少しずつでも信じたり、立ち返ったりできる。立ち上がったり出来るようになっていけるように、目指していけたらいいのではないかとも思います十

 

2016 年 4 月 18 日(月)
 第二回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記