カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-12-12 入門講座 22 聖マリア

英神父 入門講座 22 聖マリア
 前回はカナの婚礼のお話の中でマリア様が出てきました。マリア様がぶどう酒がなくなりましたとイエス様におっしゃって、そのつもりはなかったんだけれどもイエス様はマリア様に言われて奇跡を行ったということで、今日はマリア様のことについて、カトリック教会ではマリア様のことは重要な位置にありますから少し見つめることにします。カナの婚礼の時はイエス様が三十歳ぐらいの時ですから、マリア様は四十代ぐらいの時です。かなり信仰の人という感じですし、イエス様の執り成しをされる。ルカ1章26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなづけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』 マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」ナザレという街にマリア様、この頃14歳から16歳くらいの年齢だったと言われていますが、今でもナザレに行くとマリア様の実家というのがあって、洞窟なんです。庶民は洞窟に住んでいたとあります。マリア様が洞窟の家から出たところで天使ガブリエルが挨拶を受けたのであろうといわれています。 庶民の家の出であろうと思われます。ヨセフという人と婚約中であった。 そのマリア様に天使ガブリエルが突然現れたということです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と挨拶をしたわけですが「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」急に天使が現れたから、考え込むというより驚いたと思います。「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。』」恐れることはない、というのは度々出てきます。旧約聖書などで 神様や天使に出会う人は恐ろしさを感じてしまうわけです。恐れることはない、と挨拶を受けて「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」ということでイエス様という方は全く別の方で、偉大な人になっていと高きかたになる。救い主になるんですが、 「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」ということです。 「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。』」ということでマリア様は聖霊の恵みでイエス様を産む事を告げられたわけです。 あまりに急すぎて誰でも信じられなかったろうと思いますが、創り主であるイエス様の出生の 特別の働きでということで、それが聖霊の働きということです。 「『神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」天使の呼びかけを受け入れたということです。 この時は14歳から16歳で葛藤があったと思われます。「『どうして、そのようなことがありえましょうか。』」私たちも度々それはいいことであろうが悪いことであろうが、不条理な出来事とかに突然出会うことがあると思いますが、 この場合は天使ですが、神様としっかり対話をしてそして最終的に 「お言葉どおり、この身に成りますように。」という受託をするということです。それはやはり信仰者としてのマリア様の姿を語っているといえると思います。 そして私たちをこのような信仰の歩みを習っていくということが必要だと思います。度々どうしてこんなことが起こるんだろうと、良いことでも悪いことでも思うんですが、そこに神様の働き、聖霊の働きを見出して「この身に成りますように。」受け入れることができる。信仰者の基本だと思います。 秘跡が成り立つのもこのマリア様の信仰のあり方です。神様の恵みがある。それに対して私たちは「お言葉どおり、この身に成りますように。」と受け入れるから秘跡は成立するわけです。ミサの中でほとんどのお祈りはこのお祈りです。神父様が成りますようにと、集会祈願とか あるのはほとんど成りますように、というマリア様のお祈りの形を変えているわけです。一番大切なところは、聖変化のところは司祭がイエス様の代わりに言うわけです。そこは断言口調で言うわけです。だからお言葉通りなんです。これは私の体である、という言葉通りにそれが聖霊になっていただくのはまさしくこのマリア様通りに「お言葉どおり、この身に成りますように。」という信仰があるからです。それをご聖体として受け取るわけですから、「お言葉どおり、この身に成りますように。」全ての秘跡の成立条件です。ミサの心構えそのものになるわけです。だから許しの秘跡も神父様があなたの罪を許します。とイエス様の代わりに宣言して、お言葉どおりに受け入れるから許しが自分に与えられる。全ての秘跡はマリア様のこの言葉通り、この態度にかかっている。 あれは私たちの教会そのものもその通りなんです。奇跡もそうですし私たちの信仰もマリア様のその通りになるようにという受け入れの心があるからこそ、神の恵みに対してすべてが成立する。 もっと短くすればアーメンと一緒です。 アーメンと人間の方が答えるのはそのようになるようにということですから。 そういう意味でマリア様のこと言葉は私たちの信仰の模範だということです。信仰の模範であってさらに教会そのものがこの態度によって成り立っている。だからすべて秘跡でここによっています。私たちは 「どうして、そのようなことがありえましょうか。」から「お言葉どおり、この身に成りますように。」になるには時間がかかるんです。なかなか10分ほどでは気持ちは変わらないので、場合によっては1時間とかあるいは1週間とかかかりますが、この身に成りますように、と受け入れられるようなそのような態度が大事だということです。 だからマリア様の態度に倣う。 模範として尊敬することができるわけです。そして最後に 「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」その後マリア様はエリザベートのところに出かけるんです。エリザベートとは誰なのか 。マリア様と親戚だったと思います。子供がしばらくなかったのですが祭司であるザカリヤに天使が現れて子供を産むようになると告げられました。それでエリザベートは妊娠していたんです。お腹の子は誰かというと洗礼者ヨハネということで、この後イエス様が活躍する前に預言者でいました。「山里に向かい、ユダの町に行った。」ユダという町は歩いたら一週間かかる ところまで行って、エリザベートを助けるということもあったでしょうし、ナザレの妊娠騒動から逃げる気持ちもあったかもしれない。 「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」お腹の子は洗礼者ヨハネですが喜びにあふれた。「エリサベトは聖霊に満たされて、 声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。』」喜びの声を上げて、 「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」そして不思議な表現で「わたしの主のお母さまが」と書いてあります。いとこの子供なんだから、わたしの主と言うはずがないのです。だからこれは信仰告白なのです。本当にエリザベートが入ったかわからないけれどもそれは初代教会の信仰告白が反映されている言葉だと言われています。つまりまだ生まれてきていないイエス様を主といっているわけだから。でも「主のお母さまが」ということでイエス様もそうですが、マリア様に対する初代教会の尊敬の気持ちが入っていたのではないかといわれています。ここからが初代教会から マリア様は特別に尊敬されているのは間違いない。マリア様が尊敬されていた証拠は何かと言ったら二つで一つはマリア様は乙女であるというのは非常に大切にされていて、もう一つは主のお母さまであるということがマリア様に非常に重要であった。普通の人間は両方できないんです。 マリア様を乙女であって母であることができた。乙女というのは汚れの無い清い方だという意味です。 汚れのない象徴として特別にマリア様は清い方であると尊敬されていた。母マリアの母というのは、主のお母さまということで、 イエス様のお母さまというだけではなく信者のすべて の人の母であるというイメージです。つまり母親的な愛で守ってもらえるような方として マリア様を尊敬していた。この二つは最初からあり今も続いています。マリア様に対する捉え方になります。ミサの中で必ずマリア様のことをいうのですが、 奉献文の最後のほうで、神の母 乙女マリアと聖ヨセフ というんです。神の母と乙女の両方が必ず出て来るのがマリア様に対する尊敬の言葉になります。ミサの場合はさらに変わっていて神様に母親はいないので、つまり神様は創造主なのだから、神様が一番最初なんです。だからその神様に母親がいたらおかしい。古代に長い論争があってなんで神の母になったか。長い長い話はあるのですが、神学的な問題ですが簡単に言うと、属性の交換というものを神学に当てはめたんです。イエス様は真の神であり真の人である。つまりひとつのペルソナの中に神の本性と人間の本性の両方を持たれている。だからイエス様の中には 交換があると言われています。片方にも言えることは片方にも言えるという。だからナザレのイエス様が永遠の神の子であるというのは属性の交換があるから言えるということになります。人間イエスだったらただの人間だから永遠の神のこと言えないんですけれども、属性の交換が成立します。だからマリア様を改めてイエス様の母であるということと神の母であるというのは言い換え可能である。それで神の母という言い方は反対する人もいたんだけれども最終的には決められました。神の母といったらどっちかといったら、神様そのものは男でも女でもない。でも父なる神とお父さんを強調するので、だからマリア様がイメージ的に神様の母性的な表現をしている面はあります。 だからマリア様は人間なので神様ではありません。だから神の母、乙女マリアとして教会はマリア様に対して尊敬の気持ちを持っているということです。そして 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉と「 あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」という言葉を聞いたことがあるだろうと思います。この二つの言葉が合わさって前半のアヴェ・マリアの祈りになりました。後半は付け加えで祈ってください。だから乙女であり母であるマリア様がこういう方だからこそ私たちはマリア様に頼る。執り成しの祈りを私たちは 頼む習慣ができたのはアヴェ・マリアの祈りになります。とりなしの祈りになるということです。なぜとりなしの祈りがいるのかということです。ある意味イエス様に直接お話ししたらいいわけで、イエス様が御父にとりなしてくださるわけだから、とりなしがいらないといえばいらないのですが、例えば家族が病気になったら周りの人をその人のためにお祈りするし、あるいはわたしは頼まれることがとても多いです。 この日が手術だからとか今日はこの人のためにとか次から次へと祈りをしていますが、なぜ私に頼むかというと私に頼むと安心感とか人にとりなしの祈りを頼むわけです。 それは人間のすることですが 誰に頼んだら一番いいといったらマリア様が一番聞いてくれそうだから。マリア様に頼むのがとりなしの祈りということです。 もちろん自分がイエス様にお祈りするとともにカナの婚礼のところではマリア様に頼まれたので奇跡をおこされました。同じ頼むのならマリア様に頼むのがということです。マリアの執り成しを願う習慣が生まれた。祈りは何かと言ったらアヴェ・マリアの祈りでそれが発展して中世ぐらいからロザリオの祈りで数を数えながら祈るのが定着しました。そこからマリア様に対する尊敬、崇敬を少なくともギリシャ正教会ロシア正教会カトリック教会は今だに習慣を持っているということです。 マリア様は何が素晴らしいかと言うと 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」信仰なんです。「お言葉どおり、この身に成りますように。」と同じことなんです。それが幸いであるということなので、信仰を生きているからこそマリア様は幸い。だから信仰者の模範である理想的な姿としてマリア様を尊敬して 、マリア様にとりなしの祈りをしたりする形をしたわけです。それを受けてマリア様は46節「そこで、マリアは言った。 『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。』マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」有名なマリア様の賛歌で最初は「主をあがめ」でそれがマグニフィカトと呼ばれていて、ラテン語でたくさんの歌になっています。聖書の中でも美しい賛歌のひとつだと思います。 これは司祭修道者が唱えるお祈りの中で毎晩唱えるものになっていて、私も毎晩唱えています。最初は喜びです。 「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」神様の恵みを強く感じられたので神様を賛美する心を、これが中心的なものだと思います。「この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」この謙遜さです。身分の低いこのはしため、そこに神様は目をかけてくださった喜び、神様の偉大な力が働いた喜びをマリア様は味わった。これは私たちの信仰の基本だと思います。謙遜の中に神の恵みが働く。この恵みを私たちはマリア様と共に 味わえるということです。「わたしを幸いな者と言うでしょう」人間的にはマリア様が幸いかどうかは疑問です。貧しい家で育ちマタイやルカでは離婚騒動になるんです。婚約者であるヨセフの知らない間にマリア様のお腹大きくなってしまうので、混乱した状況に巻き込まれてしまうわけです。赤ん坊を産むためにわざわざベツレヘムへ行かなければならなかった。ベツレヘムへ行ってからマタイの福音書では別のところに行かなければならなかった。それほど簡単ではない人生をマリア様は送られた。今の時代とは違いますから、まず字が書けなかった。教育を受けるチャンスはまずなかったでしょうし、今の女性のようにやりたいことをやる可能性はゼロでした。だから炊事洗濯の家事を一生やったということでしょうし、 特別何かをやったから幸せではなかったでしょうと思われます。自分の息子が救い主になって、周りから言われ、母親として十字架にかかって亡くなるところを見なければならなかった。厳しいことがあってこの世的に幸いということは言いにくい一生だったでしょうと思います。 旦那のヨセフもなくなってしまうわけですし、少なくともイエス様が12歳までは生きておられその後亡くなられた。昔やもめというのは大変だったんです。旧約聖書の中でも貧しい人の代名詞でした。女性が働くことができなかったし、社会保障制度はゼロでしたから、男主人が亡くなった途端、よほど実家や親戚が裕福でない限り貧困に陥ってしまう。人間的に見てマリア様は幸せとは言えない。けれども神様の偉大な力を感じたのも事実でしょう。次元の違う幸せを味わっていたのも事実だったと思います。そのように私たちは呼ばれている 。マリア様が味わった幸せではないけれども、私たちもそれを味わうように恵みが与えられている。 「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」「思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし」「富める者を空腹のまま追い返されます。」むしろ社会的な 地位 のある人々が全部駄目にされてしまって 逆に「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満た」される。ある種逆転を語る。それは神の国の喜び。あるいは福音的な世界を語っている。それが実現することをマリア様はある意味約束しているということです。この世は逆ですから権力もあるものが威張り、貧しいものが いつも苦しんでいる。さらに格差社会になってきて富める人は富み、貧しい人はどんどん貧しくなる。でも神様の計らいは逆です。マリア様はこのことを言っているから、マリア様は貧しい人の見方。貧しい人の側に立っている。権力の側にいるわけではない。飢えるものや 貧しいものが高められる。イエス様は約束させているのでマリア様は貧しいものや弱い者や苦しんでいる側に立っておられる。だから苦しんでいる人がマリア様を頼りにすることができる。マリア様を慕うことができる。 これはイエス様の根本的な生き方と一緒です。できればこれは実現するように私たちも協力することができたら素晴らしいと思います。その後 イエス様の誕生の話になっていきます。洗礼者ヨハネの誕生とイエス様の誕生の話です。ルカ2章22節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」先ほど言い忘れましたがガブリエルからマリア様はお告げを受けて3月25日にお祝いして、つまり妊娠期間は9ヶ月というわけで、だから12月25日はイエス様の誕生日でその9ヶ月前でマリア様に天使ガブリエルが現れた日が3月25日としてお祝いしています。そしてイエス様の誕生日12月25日に決められているので「彼らの清めの期間が過ぎたとき」四十日なんです。女性は出産すると汚れるという考え方がありました。だから四十日間は汚れの期間。四十日後にエルサレムの神殿に登ったというのはひとつです。四十日なんで12月25日に40日に達した2月2日が主の奉献の記念日にあたります。清めと神様に捧げなければならないという規定があるので、 イエス様は長男ですから両方のために神殿に登っていた。その場合は生贄を捧げなければならない。 「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」で何を表しているかというと、マリア様とヨセフ様は貧しいカップルだったから貧しさを語っています。律法では牛とか羊とか、大きい動物を捧げるんですけれども、旧約聖書には羊を買うお金がない人は鳩でいいと書いてあります。だから鳩を捧げたということは、この二人はお金がなかった。つまり貧しい人だったと言うことがはっきりしています。 貧しい人用の鳩なんです。お金がある普通の人はなるべく羊を捧げます。それを捧げに行った時に、シメオンという老人がいて 「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」祈りの生活をしていたんだと思いますが、マリア様とヨセフ様の若夫婦で貧しい姿で群衆がたくさん歩いている中で全然目立たない若いカップルだったのに抱いていた赤ちゃんを見てこれが救い主だと分かったのは、シメオンは識別のお恵みがあったからですけれども、それでやっと自分もこの世から離れられる。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」 という賛歌をささげます。 教会の祈りではこれは寝る前の祈りになります。 毎日 「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言えたらいいですが。 シメオンは、はっきりと赤ん坊の姿の中に 特別な使命を見てあなたの救いを見た。しかも「これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、」異邦人にも使命されているものだし、「あなたの民イスラエルの誉れです。」ということです。「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。」と書いてあるからマリア様もヨセフ様もイエス様がどういう存在か全く分からなかったでしょう。シメオンだけが分かっていただけで、お父さんもお母さんもまだまだ全く分かっていなかったということが明らかになります。マリア様もヨセフ様もだんだんにイエス様事が誰だか分かってくるわけです。 「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、」誰を倒すのかと言ったら、先ほどのマグニフィカで唱えたように権力のあるものとか何かを倒す理由です。誰を立ち上がらせるかと言ったら 貧しい人や罪人や弱い人です。だからファリサイ派や律法学者は激しくイエス様と対立したし、この預言どおりになるわけです。 「また、反対を受けるしるしとして定められています。」十字架にかかるということを暗に語っていると思います。マリア様は言われても何もわからなかったでしょう。 しかもお母さん自身も「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」あまり祝福には聞こえません。マリア様が自分の使命を果たすのはこれぐらい困難なことだったということです。だからマリア様の幸いというのは苦しみなしにはありえないことだったということです。最終的には我が子が十字架にかかって死んでいくのをそばで見ていた。自分が死ぬよりも苦しいでしょう。母親は自分が変わってあげたいくらいと思うでしょうけれども、剣で心を刺し貫かれるくらいの苦しみをマリア様を受け取ったということです。それが信仰者としての母としての使命だったわけです。途方もない苦しみだった。それを通して復活の恵みを味わえたわけですが、そこに行くまでに苦難や苦労は大変なものだったであろうと思います。皆さんもおメダイを下げている方もいると思いますが、マリア様のシンボルは心臓に剣が刺してあるのがあるんです。
イエス様の贖いの業にマリア様もそのように参加しなければならなかった。本当に強い信仰がなければ不可能なことだったと思います。マリア様は当時は分からなかったでしょうが、経験してから私たち苦しんでいる人たちのために助けられる存在になられた。今この流れであまり見ないところなんですが黙示録 12章1節「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである』」あまり黙示録は入門講座ではお話しませんが、少しお話しします。黙示録というのはヨハネが書いたものですが、未来の予言があったりその時の事を語っているものですが「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」これがマリア様だと描かれることはあります。基本的には何かと言うと、十二人の星の冠とか太陽とか月とかは集合人格的なんです。個人というよりは集合的な人格を表わしています。だからこれは教会を表しているのが普通の解釈です。つまり初代教会、教会=マリア様というイメージはあります。それは迫害されている教会 の話です。誰が迫害しているのか。それはサタンなんですけれども、ここでは竜と書いてありますがこれには「七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。」と書いてありますがこれも集合人格的な姿。だからこれは初代教会であればローマ帝国。強大なる権力を持っていて様々な王様がいて様々な軍事力を持っていた。だからローマ帝国の中でその時の権力者から迫害されている教会の状況を語っているといわれています。それをサタンという凶暴な力に対して女という形で非常にか弱い弱いイメージで語っている。だから荒野に逃げこむというのは集合的に迫害されて逃げざるを得ない。教会とか信者の人々です。 ついでに言うと1260日、三年半です。大体サタンが働く期間は3年半ということです。倍は7年です。7というのは神の数字だからサタンはその半分だけ。例えばイエス様がエジプトに避難したところもイメージ的にあてはまっている。エジプトの荒野に三年半逃げたと言われています。いろんなイメージがかぶるわけですけれども 、黙示録全体で入っているのはここで集約されています。つまり迫害されている教会の中でいかに帰っていかなければならないのか。迫害の力は強いですけれどもそれに負けないで行かなければならないという励ましの書なんです。 だけど負けているばかりかと言うとそうではなくて、「天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。」「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。」つまり龍が負けてしまうと言う。神様が勝利を得るということがはっきりと語られています。だから迫害に合う信者の励ましになっています。でもこういう状況はいつでも来ますから、例えば250年前は切支丹たちがどれくらい迫害されたか。 秀吉はそうでもなかったけれども徳川家は徹底的に迫害した。初代教会はローマ帝国に迫害されたし、最近だったら共産圏でどれくらいのキリスト教が迫害されているか。いつでもこういうことは起こりうる出来事ではあります。 でも負けてるばかりではなくて神の大きな勝利があるとはっきりと語っています。 だから10節以下が神の勝利を賛美する 詩が始まる。どういう形で勝利するかは時代時代で違うでしょうけれども。これはマグニフィカトをそのまま生きているんです。サタンに表されているのは権力なるものとか地位の高い者たちが滅ぼされて逆に女に象徴されている貧しいものや弱いものが立ち上がることができる。その恵みの世界を語っているので舞台装置は違うけれどもマグニフィカトと同じことをここでも語っている。そして迫害とか苦しみの中にある女、教会の人々を励ましているわけです。その中で11節「 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。」彼というのはサタンです。サタンに打ち勝ったのは子羊の血。イエス様の贖いの血と自分たちの贖いによってです。 言葉と行いにして表す。マリア様のイメージは困難の中にあっても私たちを助ける側にあるということです。だからどんな困難にもめげないでその時々の困難をマリア様と共にイエス様と共に乗り越えていけるようにということです。まとめて言うとマリア様は信仰の模範です。キリスト教的な教会の原型を語っている。二つの名称は乙女であるということと母であるということです。乙女という言葉がどんどん発展していって、最終的に無原罪の御宿りの日を発表して12月8日がお祝い日なんですが、清いは原罪から清められる。マリア様が母の胎内にいた時からという教理なんです。 それは時間的には逆ですけども十字架の復活の恵みによって、マリア様は最初から原罪から免れて汚れのなさ清さを持っていて、私たちもその清さに預かれるようにと言うことです。もう一つは母の方ですが、これが極まったのは8月15日聖母の被昇天といって最初はマリア様が亡くなった日のお祝い日だったんですが、途中からマリア様生きたまま天に上げられた。イエス様も体のまま天に上げられた。 そのまま天で妃になった。だから今一番大きなマリア様の祝日は8月15日の被昇天と12月8日飲む現在です。この二つが大きな祝日としてお祝いされるようになりました。この乙女というところから発展して日本語に訳せない。マリア様の事をレディーと呼ぶことは多いです。でも日本語に訳せません。例えば2月11日のファティマの聖母の記念日は英語で言うたら Our Lady of Lourdes ルルドのレディー。あるいは 5月15日はファティマの聖母の記念日、英語で our Lady of Fatima 乙女から変わってレディーと呼ぶのもあるんですが日本語には訳せません。ルルドの聖母とかファティマの聖母とか、でも本当は母ではなくレディです。今日はグアダルーペのレディーの祝日なんですが母ではなくて our Lady of Guatemalaです。だから西洋文化ですね。 女性がレディーになる。淑女というんですか。そういうものをマリア様に当てはめています。被昇天の方で天に上げられたマリア様は何かと言うと女王Queenです。これがマリア様の二つの称号で特にレディをよく使います。日本語では全部聖母にしてしまっているから母マリアに全部統一している感じです。乙女マリアとしたら日本語ではおかしいですから言い換える現代の言葉はないんです。 マリア様は頼りになられる方なので、わたしたちは執り成しの祈りを 助けてもらったり、模範となる尊敬する方ということです十




2016 年 12 月 12 日(月)
第 22 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記