カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-12-05 入門講座 21 婚姻の秘跡

英神父 入門講座 21 婚姻の秘跡

 今日のテーマは、交わりと使命を生きる秘跡で、婚姻の秘跡をお話したいと思います。結婚式のことです。これはキリスト教的には重要視しています。ヨハネ2章1節「 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。」このヨハネの福音書では、イエス様の最初の奇跡が描かれています。 一章で弟子たちの召し出しということがあって、カナというところでイエス様と弟子たちが結婚式に参加された時のエピソードで、本格的に活動する前の段階です。「三日目に」ありますがこれは火曜日ということです。日曜日は一日目ですから火曜日です。ユダヤ教の大安吉日は火曜日です。だから結婚式はだいたい火曜日にやるのがユダヤ人の習慣です。それは創世記の一番最初に世界を作るのに九日間かかるので三日目だけは神様が二回「良しとされた」と書いてあります。そのことから縁起がいいと言われ、火曜日にだいたい結婚式が行われる。「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。」イエス様の母の親戚筋だったかもしれません。カナは山の中でナザレも山の中で、このあとイエス様はカファルナウムに行かれてガリラヤ湖畔なんですが、やはり母マリアの親戚筋だったかもしれません。だから手伝いに行っていたような感じでしょうか。その後から「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」ので訪れてきたという感じです。ぶどう酒が足りなくなったので 「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」だいたい禁酒の国以外はお祝いにお酒を飲むのは当たり前で、途中でお酒が無くなるのもしらけてしまうし、婚宴の最後にラビが花嫁を祝福する式があります。その時にぶどう酒がないとだめなので、結婚式そのものも終了しないという問題もありました。マリア様がぶどう酒がなくなったのでイエス様に何とかして欲しいと思って「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」まだこの時は本格的に宣教する前だったので、あまりイエス様は特別な力を働かせたくないというのがあったのかもしれない。でもマリア様は召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ってイエス様が否定しているのに事を勧めているような形になります。するとイエス様も母マリアの願いを聞いて、相当大きくて80リットルから120リットルぐらいの甕に、水をいっぱい入れなさいということで、いわゆるミクベという清めのための水を使う容器ですけれども、そこに水をいっぱい入れたら「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」ということで召し使いたちは運んできました。その水が良いぶどう酒に変わっていった。 世話役の人がとても驚いたというわけです。しかもそのぶどう酒はとても良いぶどう酒だったということです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」これが一番良いぶどう酒と思われます。イエス様が奇跡的に作られたぶどう酒というのは最上級だったろうと思われます。だいたいどこでも始めは味わうために良いぶどう酒を出して、酔ってきたら少々劣ったものにする。それが逆になってしまうぐらいイエス様の奇跡が大きかったです。 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」まさしく神様の栄光ですね。それを表されたということです。明らかにこれはイエス様が結婚を祝福されていると解釈できます。イエス様も自ら婚宴に行かれているわけだし、そこで水をぶどう酒に変えるぐらい結婚式が成立するように、皆でお祝いの気持ちをさらに盛り上げるような形でイエス様が奇跡を行ったわけです。
この中でも結婚されている方は多いと思うし、いったい人は何のために結婚するのか。古代から一番強い理由は家族を作らなければ生きていけない。個人で人は生きていけるのは現代ぐらいかなと思います。つまり家族で結束して助け合って、仕事にしても防犯にしても人は一人で生きている状況ではほとんどなかろうと思われます。 家族で一致団結しないと生きていけない。それがないと人は生きていけないということはあったんだと思います。それを言うならば子孫を 残すということも大事で、 結婚して子供を育てて家族の中を支える人間を作っていかなければならない大事なことだと思います。日本もそうですが家系の反映ということのために結婚は大事だったと思います。 日本でも家同士の結婚というのが強いと思います。戦国時代はお互いの政略結婚で繋がりを保っていたと思われます。結婚は社会的意味も含まれていると思います。若い人が言うには結婚したら独立した戸籍ができる。結婚した途端、責任が増える。親戚付き合いからお中元お歳暮とか。独身時代にパスされていたものが 、結婚した途端、社会的儀礼をしなければならない一つの単位になるわけです。一昔前は結婚して初めて一人前になるというのはありました。 そして経済的な理由もあると思います。また子供が欲しいという理由もあると思います。 恋愛のゴールと考えもありますし、精神的安定を求めるというのもあると思います。結婚はいろんな理由で結婚する。昔は結婚するのが当たり前でしたから社会常識的に結婚をしました。では聖書的には何なのか。創世記2章18節 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と神様が決められて、アダム以外にエヴァを作られた。基本的に最初から神様は人は一人で行くのは良くないと、人は助け合う存在であるとして作られているので、人は結婚するものと神様がそのように作られていると思います。助け合う存在としてパートナーがいるということです。創世記はユダヤ教の考えもあると思いますけれども、キリスト教的な意味は何のためにどういう目的かというと、コンペンディウム、カテキズム要約版341にあるんですが 「キリスト教が結婚について新しい意味をもたらしたのはどういう点ですか」という質問ですがその答えが「結婚の秘跡はイエス・キリストが教会をご自分の花嫁として愛したその愛のしるしです」と書いてあります。もともと秘跡の話をした時に、神様の愛や恵みの目に見えるしるし。だから結婚するということは神様の愛とか恵みを目に見える形で生きること、ということです。それが秘跡としての結婚意義である。しかも「イエス・キリストが教会をご自分の花嫁として愛した」ようにということです。もともと結婚するということは旧約聖書の最初から出てくる重要なイメージなんです。婚礼と言った時に語っているかというと比喩的には神と人間との親しい交わりのことを結婚というたとえを使っています。旧約聖書では花婿がヤーウェの神様、花嫁がイスラエルの神です。神様の親しい交わりが結婚生活における忠実さとか、互いに愛し合うことと繋がっているということです。 キリスト教の初代教会だったらどうかというと、花婿がイエス・キリストで花嫁が教会で婚礼が成り立つということです。 さらに中世の神秘家、シスターから出てくるイメージでは、花婿がイエス・キリストで花嫁が人間の魂。だからイエス様との魂における一致が結婚ということでイメージとして考えていた。逆にイスラエルの民が神様の命令に反して別の神様を拝んでしまうことは、結婚に対する不忠実として描かれた。姦淫、今の日本でいうと不倫というイメージを使うわけです。そのように考えるとカナの婚礼も深い意味があると思います。婚礼という形で人間の救いの話をしているとも言えるし、わたしたちの人間的な結婚関係のキリスト教的意味を問うている。だからマリア様がぶどう酒が無くなったっていうのは、現実生活にあり得ることだということです。はじめに良いぶどう酒を出して後から悪いぶどう酒を出すというのは、人間的な愛の特徴だということです。 イエス様の恵みが働いて水がぶどう酒に変わるという奇跡的なことが行われているところに神の恵みが働く事が わたしたちに与えられているというところにわたしたちの救いがある。それは結婚生活だけではなくて親子関係にしても何しても、ぶどう酒がなくなったように見えても、そこに神の恵みがしっかり働いている。だから初めに味わうぶどう酒よりももっとおいしい、質が違う神の恵みを結婚生活から、あるいは人間的な関係からわたしたちは見出すことができるということです。それがキリスト教的なイエス様のメッセージの一番大切なことではないかと思います。そこに信仰が問われたり、わたしたちの祈りが問われるわけです。ぶどう酒がなくなった状況から豊かにぶどう酒が与えられて、そこに神様の救いの力が働いているからです。そしてそれが今までの講座で扱った内容が当てはまることがある。罪の問題です。なんでお互い同士が駄目になるかといったら、相手にも自分にも罪があるからです。罪深さのものにわたしたちは打ちひしがれていることもあるけれども、だからこそ悔い改めと赦しと和解の恵みが与えられることもある。すべてがうまくいくとは分からないですが。あるいは家族が病気などで困難があるとき、いやしの恵み、救いの恵みが働くこともあるでしょう。根本的には神様の無条件の愛が支えている。親は子供を愛する時でも、夫婦の間でも 赦し合い、受け入れの心とか愛し合う心とか、励まし合うような気持ち、そういうことがわたしたちに問われています。そういうものがあるからこそ、わたしたちは水がぶどう酒に変わる恵みを、結婚生活や家庭生活においても味わうことができる。それが大切なことではないかと思います。ぶどう酒がなくなったことと、その後ぶどう酒がふんだんに与えられたということは、最終的には十字架と復活の恵みに招かれていると思われます。わたしたちの秘跡の恵みの根本はあるといえると思います。どんなに仲の良い夫婦だってどちらかが先に亡くなります。十字架は避けて通れないと思います。結婚当初から重い十字架を背負わざるおえない人もいるかもしれないですけれども、うまくいってもどこかで十字架がある。でもそこで終わるのではなくて、復活の恵みに絶えず導かれているというのが救いだと思います。「三日目に」というのは火曜日と言いましたがクリスチャンの意味が明らかです。三日目にというのは復活という意味が入っています。 イエス様の復活によってこそ、わたしたちはただの水がぶどう酒の恵みとして受け取れるということはあるだろうと思います。 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」イエス様の時というのは最終的には十字架の救いの時のことです。 このお話は最初から十字架と復活のお恵みの話を語っていると思います。だからこそ秘跡である。秘跡が成り立っているのはイエス様の十字架と復活、そしてそこからくる聖霊の恵みからですから。結婚生活も家庭生活も復活の恵みと聖霊の恵みで成り立っているからこそ、そこに神の栄光を見ることができる。
イエス・キリストはご自分の教会を花嫁として語っているところがあるのですが、エフェソへの手紙 5章21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」ここで妻と夫の関係と、キリストと教会の関係に置き換えているんですが、同時に男尊女卑的な考え方もあるので、ここを結婚式で読んだことはないんです。現代は男女平等で考えるので、今はお互い同士はというふうに考えなければならないと思います。 「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」お互い同士だと思います。キリストが教会を愛するということは無条件の愛。教会と言ってもできない教会ばかりではないですから、罪は問題のある教会をイエス様は赦し受け入れて愛したように、わたしたちも互いに愛し合っていくということです。神様の愛をわたしたちが生きていくというようにということを呼びかけているわけです。 「キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。」このように神の愛をわたしたちがどのように生きていくのかということが大事なポイントになると思います。別の角度からいうと、わたしたちは神様の愛を生きるということもそうだし、わたしたち自身が神様と一致するように呼ばれているというものではないかということです。結婚生活は案外難しいものと思われます。 結婚の目的は魂の救いではないか。神との交わりを深めることだと。 自分の対極にあるもの、男性女性性との関わりの中でそれは成し遂げられる。 違うものと結婚することこそ違う道筋が開かれる。案外自分と似てない人と結婚する人が多いわけで、趣味とか性格とかそういう傾向はあるかもしれない。 嬉しいこともあるし喜びもあるけれども、その反面逃げられないこともあります。それが結婚の本質だということです。 修道生活も独身生活も同じだということです。魂の救いに至るためには、ある意味自分自身との直面は避けられないということです。相手と直面するようでいて、自分と直面しなければならない。 この世的に幸福な結婚でも不幸な結婚でもどちらでもいいと思います。この世的に幸福に結婚している人は少数だけどいると思います。それを成功とする必要性はない。逆に不幸な結婚生活を送られている人はたくさんいらっしゃる。不幸な結婚を失敗と考える必要は全くないです。つまり魂の救いのためにその道筋をくぐっていくということです。だからたとえ不幸な結婚をとしても、それを通して信仰が深まるとか、何か魂が深まるようなことにつながるとしたら、それは恵みであるということです。どれくらいの割合か分からないけれども結婚している人で一回も喧嘩したことがないという夫婦はいらっしゃいます。ずっと仲がいい。それが一番いいことかどうかはわかりません。大体七割は喧嘩したり仲良しだったり、あとの三割はずっと喧嘩している。喧嘩した方がいいとか喧嘩しない方がいいというのではなくて、自分自身との関わりを通してどう信仰を深めて愛を生きていくかということは一人一人に問われていて、結婚していない修道者にも問われているし、みんなにも問われていることです。その魂の救いの道を見出していけるかどうかというところを大切にしたらいいのではないかと思います。結婚というと結婚式を考えるんですけれども、一生涯そうしなければならないということです。 結婚式で自由意志の確認というのがあるんです。洗礼式も結婚式でも自分がそうしたいか聞くんですけれども、案外自由意志ではなくて親が決めたこととか、式場を決めたから仕方なしにとかあるんですけれども、その時は自由意志でというのがあるんですが、人間は不完全だから後から考えた話です。そして生涯共に生きる決意をする。病める時にも健康な時にも生涯互いに忠実と愛を誓う。 基本は生涯関わること。神の愛は変わらないからです。人間の愛は変わります。つまり神の愛を表しているのは生涯変わらずということです。生涯かけての関わりを約束する。だから基本的にカトリックは離婚を認めていません。厳密にいうと再婚を認めないということです。そして普通の秘跡は神父様が授けることが多いです。ご聖体ですね。それは祝福して与える。赦しの秘跡は神父様だけが聞いて赦しを授けるんですが、結婚の秘跡は誰が授けるかというとお互いが授けるんです。神父様が授けるわけではないです。お互いがお互いに対して授け合う。 生涯神の愛に生きるということを心がけるということです。生涯といっても簡単ではありません。全ては十字架と復活の恵みだと思いますけれども、表面的に見て失敗したとか個人的にはあまりどちらでもいいというか、むしろ大切なところを生きていくことを心がけられたらいいと思います。もちろん民法上の離婚もしてしまう夫婦も多いと思います。人間的な弱さはどこにでもあります。ただ民法上の離婚はカトリック法では別居状態なので問題はないんですが、再婚する場合は、東京教区の教会裁判所に申し込まなければなりません。結婚の絆を解消してもらうという手続きをしないと教会法上は結婚できません。つまりカトリックとしては生涯結婚するという事を決めているんですが、離婚がないので、元々結婚 が成立していなかったことを証明して、つまり前の傷が無く、解消して二回目の再婚ができるという方法を取っているということです。 いいかどうかわかりませんが、そのためにペトロの特権とかパウロの特権とか聖書に基づいて絆を解く様々な方法があるけれども、全部が全部解けるとはいえません。なんでこだわるのかというと、マルコ10章1節 に離婚の話が出てくるんです。モーセは 離婚状を出したら離婚ができるわけだけど、イエス様にどうですかと聞くと離婚は認めない。なぜかというと 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」つまり神様が結びつけてくださったから人間が勝手にそれを解くことはできないというわけです。御言葉についても様々な解釈があります。一般的な意味で言ったらなぜイエス様がこうおっしゃったかと言うと、男性が勝手に離婚することを禁じるためでしょうというのが一般的な解釈ではあります。つまり男性は勝手に離縁状を渡せば離婚ができたんです。日本も昔はそういう法律はありましたが、つまり弱い立場にいる女性を守るために、こうしたいんだろうというのが元の意図ではないかと言われています。ただ聖書で「神が結び合わせてくださった」とはっきりと断定できるとなかなか難しいので教会法上いろんなことは考えられている。教会では二年前のシノドスでも問題になって、一年後にパパ様が結婚解消の手続きの簡略化を発表しました。なかなか習慣そのものを変えるのは難しい。今のパパ様でも変えられない。結婚解消の手続きというのは教会裁判の手続きを簡略化したわけですが、それを一年後に発表しました。
神様が結びつけてくださったということで、ヨハネ15章11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」ここはイエス様が十字架にかかる前に最後の晩餐の時に、弟子たちに話された長い告別説教と言われているのですが 、遺言のように語られたことの一部です。十一人の弟子たちに話た中の一部なので結婚のことを言っているわけではないです。この箇所は結婚式でよく読まれる箇所の一つです。割と結婚に大事なことが描かれているからだろうと思います。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」相手が自分を選んだつもりだけれども、神様が二人の関わりを選んだというような、そのような感覚というかものの見方がわたしたちの結婚の考え方です。やはり日本でもあると思います。ご縁があったとか自分たちの意思を越えて、神様が結び合わせてくださったということです。そういう気持ちは良い悪いではなくものの見方として大事なことだと思います。二十代ぐらいのはっきり分かっていない時に 結婚しようとすると、相手にどんな問題があるかとか、将来何があるか分からないけれども、その時結婚したいわけだから、人間の意志を超えて 神様が結びつけてくださったということを考えた方がずっといいのではないかと思います。しかも 「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」結婚するということは二人だけではなしに、子供を育てるとか家族を見るとか出てきますが、神の愛を周りの人に分かち合っていくような、家庭というのは開かれて自分たちだけのものではないというのが重要なことではないかと思います。「あなたがたはわたしの友である。」イエス様が弟子たちを友というわけです。現代的には夫婦は友でなければならない。つまり対等になんでも分かち合えるような現代的な夫婦の関係だと思います。つまりどちらかがどちらかの下僕であるのは現代的には不健康だと思います。どちらかが主人でどちらかが奴隷という関係は、下僕のような形は今はないと思います。同等な友として助け合ったり励ましあったりする。場合によっては友のために自分の命を捨てることも当然あると思います。相手のために家族のために子供のためにとか。だからここは家庭の大切なところを語っているように思います。だから結婚式で読まれることが多いんですけれども、その理由が分かるような気がします。神の恵みは秘跡に限定されないものなので、皆さんの結婚生活だったり家庭生活だったりをこういう という観点から見直してみて、どのように神の愛を自分の中で生きていくのかというのを、見直すようにしてもらったらいいのではないかと思います十

 

2016 年 12 月 05 日(月)
 第 21 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記