カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-10-26 心に重荷を負う人と共に

英神父 講演  日本福音ルーテル東京教会 於

 この講演のタイトルが「心に重荷を負う人と共に」ということで、そのお話をさせていただきたいと思います。  ここ大久保の建物の向かいのビルの中に、カトリック系のAAAのグループがあり、そこに月に一度ほどミサに来ていました。十年ほど前から教会があることは知っていたんですが、特に去年は宗教改革五百周年で、大きなのぼりが掛けてありました。今回はルーテル教会とカトリック教会が合同で礼拝を捧げたりして、共に歩んでいこうという姿勢が特に去年は強かったので、こういう場に呼ばれてお話できるのも非常に嬉しく思っています。建物に入ったのは初めてということもあるんですが、入る前にここらへんを歩いていたら前の仲間がいて立ち話をしました。 今日はこの「心に重荷を負う人と共に」ことですが、かなり広いテーマなのでどこに焦点を絞ったらいいかなと思いながら、思っていることを少しお話したいと思います。    現代の日本でどう考えるかと思うのですけれども 、戦争が終わってから七十年以上がたっていて、非常に平和な国であるわけだし、世界で一番安全な大都市ではないかと思います。日が沈んでも外を歩ける、日本人にとっては当たり前ですけれども、外国に住んでいたら日が沈んだら大都会は歩けません。それに比べたら日本は安全でしかも警察に信用がおける。警察に対して不信感を持っておられる方はほとんどおられないでしょう。でも外国人のある神父様は、警察官を見ただけで怯えているんです。なぜかと言ったら、自国では外国人扱いされ警察に捕まるとすぐ意地悪をされて、お金を取られるとか悪いことをされて、 アメリカにいるときも警察がいるからここは注意しろと言ったりしていました。日本人にしてみればそんな経験一度もないですから。 おそらく世界の歴史の中で、今の日本より平和で安全で物質が豊かというところはないのではないかと思います。しかもこれだけ医療が充実していて、健康保険制度がちゃんと働いているのも、おそらく日本だけではないかと思います。見た目で言うならば、これだけ安全で問題なく暮らせるというのは現代の世界でも稀だと思います。外国人に言わせると日本は理想な国だそうです。日本に住みたい、あんなに豊かで安全な国に住みたいと思っている外国人がいっぱいいるような国ではあります。中にいるとあまり意識しないですけれども、でもその割に幸せかと言ったらそうでもないというのが難しいところではあると思います。心の病気の時代と言いますか、とにかくとても病気の人が多いというのも認めざるを得ないかなと思います。きちんとした数字は言えませんが、おそらく日本でいわゆる引きこもりと言われる人は百万人以上はいるでしょうか。あと依存症で、わたしも AAA のグループに 関わっていましたが、ギャンブル依存とかを合わせたら百万人ではきかないと思います。うつ病に至っては何百万人以上になってしまうのでは。心の病気系統ですけれども、何百万人のレベルで日本にはおられて、自分の家族や親戚まで合わせると何かしら心の問題などを抱えた方がおられるのも不思議ではない時代ではないかと思います。うつ病でも新型うつとか、新しいタイプのうつ病が分かり、統合失調症でも新しい形の病気が出ている感じもします。昔は聞かなかった名前の難病の方々も多い印象ではあります。他の方々もいつ自分がなるかわからない。いつ自分が心の病気になってもおかしくはないとも言えるでしょう。神父様の中でもダウンする方はおられる。個人的にはわたしもいつダウンするかヒヤヒヤしています。わたしもあまり丈夫なほうではないですから、自分がダウンしないようにするにはどうしたらいいか、案外気をつかわなければな らないところも多いです。仕事が多すぎてオーバーワークになり、どうしていいかわからないところもあって、しかも悩み相談も多いいんです。わたしは信者さんには面会は年に二回までにしてくれるようにお願いしています。しょっちゅう神父様、お話が、お話が、と言われてそれを全部聞いていたら生活が破綻すると言うか、他のことが何もできなくなるので、再び来られるなら年に二回までに来てくださいと、春に来たら秋にしてくださいと、個人的な悩みを聞く限界を超えています。イグナチオ教会には心の相談室という、専門のカウンセラーが平日にはほぼ毎日いて、それでも足りないから最近は傾聴ルームというのを作って、悩みをなるべくみんなに聞いてもらうような感じにしています。それでも現代の問題は大変なものです。自分がそうではなくても、みなさんの家族がいつダウンするか、これも全く分かりません。引きこもりも40代50代でもしている方がいて様々ですから、いつ誰がどうなったっておかしくないし、すでに家族にそういう方が おられる方もいるでしょう。特に身体の病気とか障がいは目に見えるので分かりやすいですが、心の精神障がいの方は、表に見えづらいから余計に分かりにくいし、しかも、他の人にはなかなか理解されないようなところもあります。精神障がい者の方々は一見普通に見えるので、その方々に対するケアをどうするかということは難しいかもしれません。そのような中でどうしていくかと考えなければならない。わたしはカウンセリングとか特別に勉強をしたわけではなくて、一応霊性神学を勉強したということですが、あまりたいしたことないので、これという専門家でもないですが、とにかく日々いろんな問題を抱えた方が来られるので、どちらかと言うとわたしは悩みながら、半分諦めながら祈りながらやっているという感じです。   悩み相談にかかられる方で大きく分けると二つのタイプがある。一つのタイプの方は会話が可能な方。話合いが成り立つ方々はカウンセリングに当てはまり、イグナチオ教会では心の相談室に通ってカウンセリングを受けられるような方々がおられます。そういう方々は対話をしながら解決策をみい出すことができます。もう一つのタイプの方は、対話が成立しない方々も教会に来られる。対話が成立するかしないかのポイントは 、とにかく大勢なのでリピートでお話できないので、一回限りでお会いしているという気持ちでいなければならず、こうされたりああされたりしたらどうですかと、その方にお勧めをするわけです。ノンダイレクティブ セラピー。あまりこちらから指示しないで、聞くのを中心にする。会う回数を重ねらえるならいいですけれども、この人とはおそらく一度しか会わないなら、何にもアドバイス無しでは申し訳ないので、大体こうしたらいかがですかと、お勧めできる方が対話ができる方です。こうしたらどうですか言うと、ではそうしてみますと対話が可能。こうしたらどうですかと言って、対話ができない人が、対話が成立しない方。わたしの中ではそういうくくりで考えています。わたしのところに来られて、1/3から1/2は心の病気だと思います。あと電話でかかってくる人の半分以上は対話が成立しない方の相談です。 統合失調症で被害妄想を持っている方々が多い。多いのが政治団体に追われているとか、新興宗教団体に狙われているとか、見張られているとか、ありとあらゆる団体に狙われている。そういう方々にアドバイスをするのはなかなか難しいです。ある長距離電話の方は、とにかく日本の政府に狙われている。日本の政府の裏側にはイエズス会が陰謀をめぐらしていて、自分が就職してもすぐ政府の陰謀で、その裏にいるイエズス会の陰謀で自分は辞めざるを得ない。ではなぜイエズス会のわたしに電話してきたんですかと尋ねると、イエズス会の陰謀が確かかどうか確かめるためだと言われます。だからわたしはイエズス会に入会して三十年以上経つんですが、イエズス会が世界征服についての会議をしたことは一度もありません、と答えます。すると電話口で、あなたはいい人に思える。多分イエズス会の幹部の人がそういう陰謀をしているんだろうといいます。そうすると答えようがないので、その電話をどう終わらせたかも覚えていませんが。イエズス会ができたのはプロテスタントと同じぐらいで、450年ぐらい近く前で、500年近くかけても世界征服できていないんだから、客観的に無理でしょうと思うんですが、そういう電話とかがあります。ある方はある政治団体に追われていると毎回おっしゃいます。だからわたしも毎回、大丈夫だから、ロザリオで唱えたら、マリア様が守ってくださる から、その団体よりもマリア様の方が絶対に強いから大丈夫ですよ、と毎回同じアドバイスを百回ほど繰り返しています。その度に彼は分かりましたと行って帰りますが、また電話がかかってきて、その団体から狙われていると始まるので、わたしが、ではマリア様が、と話します。そして分かりました、とただその繰り返しです。ある方は電話で壁から何やら悪霊の声が聴こえると言うので、ではアヴェ・マリアの祈りを唱えればマリア様が守ってくださるから大丈夫ですよ、と言ったんですが、その方は「いえ、わたしはプロテスタントです。」と言われました。これはマリア様が使えないと思って、「では聖書があるでしょう。その壁に向かって聖書を読みなさい。悪いものが退散するように。」そういう対応しかなかなかできないということもあります。ただ問題なのは、そういう対話もできない人がたくさんいて、どうするかというのが個人的には一番大きな問題です。とにかく電話や相談やカウンセラーを置いていても、さらにわたしに相談がくる。そういうことを思いながら対話できる人達にはどうするかということで、ルカ12:13「 群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』 イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』 そして、一同に言われた。 『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」この一番はじめの「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とイエス様のところに相談に来られたわけです。この人はちゃんと社会生活を送っている人なので、先ほどお話した対話ができる人の場合です。 兄弟から遺産をとろうということになったのでしょう。このような相談は今でも少なくないということです。本当にかわいそうなぐらい遺産相続でもめる人は多いです。こんなに法律がちゃんとしていてどうなるか決まっていても、本当によくもめる問題の一つです。そして相談を受けてどうしようか考えますが、イエス様の答えはこの通りだと思います。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や徴税人に任命したのか。」問題そのものにはイエス様は触れられていません。わたしの場合は、裁判をやりなさいと言うしかないかなと、気が済むまで裁判されたらどうですかと、結局は言わざるを得ません。そして裁判が何年もかかることが多いです。そういう方と関わって、結局イエス様のおっしゃる通りです。どこに注目するかと言ったら、遺産をどれくらいとるかというより、 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」つまり問題の裏にある自分の心の置きどころをイエス様は問われています。この人の場合は本当の問題は遺産相続の問題ではなくて、自分の心の中がどういうものかということです。結局は裁判している人と関わることによって、だんだんとその人が自分の中のそういう問題に気づいていく。そのような助けをするのが基本かなと感じます。裁判そのものは弁護士に相談して、そして粛々と裁判をされたら、それなりの結論が出ることによって、その事を通して、自分が信仰者としてどうだったかということを振り返ることを手助けするようなことが、わたしとか助ける人にとって、イエス様のこのような態度が基本ではないかと思います。そしてイエス様がここで一つのたとえ話をされます。 人によってどういうたとえ話がピンと来るか、その人の問題とか状況に合わせて違うけれども、でもその人の心の中がほぐれるような、自分の捕らわれているポイントが 動けるような関わり方ができるということが基本だなと思います。そしてその後 ルカ12:22「 それから、イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』」ここは執着の問題でこの話は出てきます。時々世界で一番わたしが不幸だという人に何人も会っています。話を聞けば聞くほど世界一ではないんです。ちゃんと家にも住んでいるし、服装もちゃんとしているし、でも本人は悩みでいっぱいだから、自分は世界で一番苦しんでいると主観的で思われています。もちろん大きな悩みを抱えて苦しんでおられるわけです。家族や仕事や病気や様々ですが、やはりその時のイエス様のお話の進め方がその通りだなと思うんですが、 ルカ12:24「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」 「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。」世界一不幸だと言っていた人も、良いところが見えていないだけだったんです。大きな問題はそこなんです。神の恵みの中にあるということが、大体気づかされているということです。   鎌倉の黙想の家にいた時に、ほぼ一年中花が咲いています。大体空の鳥がいて、空の鳥を見よとか、野原の花を見よとか言える環境です。マタイは山上の垂訓でこのお話を語られます。 今のイスラエルに山上の垂訓教会というのがあって、そこは365日花が咲いていて、365日空の鳥がいます。イエス様があの場で話しながら 、指差しながらこの空の鳥とか野原の花とか指差しながら とおっしゃった。わたしが鎌倉の黙想の家にいる時には、外に出て花を見てきてくださいとか言いました。問題に捕らわれていて心がギューとなっているので、花を見ているだけでだんだん穏やかになってきて、神様のお恵みに心が開かれてくる。でもすぐではありません。信者さんの集まりに来たり、黙想を繰り返しているうちに、だんだんと恵みの世界に心が開かれてくると、問題そのものが解決しなくても気持ちがほぐれてきて、神様の恵みの世界が少しずつその人の心の中に入ってくることによって、いつのまにか気持ちが変えられるような形になってくる。そしてルカ 12:32 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」お金のことで苦しんでいたけれども、やはり神の国の喜びにだんだんと気持ちが向いてくれば、だんだんと不安や恐れがほぐれてくるわけです。 12:33 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。」最初は遺産相続で自分のとり分が少ないと言っていた話が、最終的には自分の持っているものを施せという話になってしまう。 どれだけ財産をとるかという話が、どれだけ分かち合えるかという話に完全に変わってしまいます。そこまでわたしたちの心の在り方とか、神の国とか神様の恵みの世界とかが中心になればなるほど、自分の捕らわれている問題が相対化されて、あれだけ足りない足りないと言ってたのが、逆に人に分かち合う生き方に百八十度入れ変わるような話になってます。このような関わりをイエス様が人々にされていた。そしてわたしたちも何かで苦しんでいる人を見た時に、問題そのものは少しずつ変わっていきますが、でも心の方はわたしたちはいくらでも変えられるということは、神様の恵みの世界で変わってきて、生き方すら方向転換することがありますから、そのようなことをわたしたちは心がけたらいいのではないかと思います。 自分自身もそうですけれども、 悩みを抱えている人は余計に視野が狭い。恵みに気づいていない 。自分の苦しみだけに集中しているところから回心する、悔い改める、神の恵みの世界に変われば変わるほど、自由な気持ちになっていていく。このことを心がけたらいいのではないかと思います。これは対話が可能な方々との関わりの王道というか、このようなことを中心に心がけられたら良いのではないかと思います。

                 

 次は対話がなかなか難しい方とどうすればいいかというお話です。わたしもこれといった決定的な解決策があるわけではありませんが、それも少し考えてみたいと思います。悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやすお話です。マルコ5:1「 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。」現代的に言うと、この人はかなり重い精神疾患と感じられます。拘束具をつけても引きちぎってしまうくらい物凄い力を持っていたということです。こういう人に対してもイエス様は向き合ってと言うか、こういう方は取り付く島もない感じで、普通だったらどうかと思います。「墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたり」重い重い疾患の人ですね。教会にいたらお手上げ状態で、なかなか考えさせられます。精神疾患で興奮状態にある人とどう関わればいいのかということでしょう。 悪魔に憑かれていると言っても対話が成り立たないタイプの方です。ある方が来て、自分は悪魔に憑かれていて、自分の耳がだんだん悪魔耳になってきていますので耳を見てください。ほらなってるでしょう。と見せられて、わたしはどう関わればいいかというところです。ある方には、なぜここに来たんですかと聞いたら、精神科医に英神父の所に行くようにと言われたそうです。わたしはそのお医者様を知りませんが、うちではもう診れないから英神父のところに行きなさい。と言われて来ましたとおっしゃいました。 あるカトリック教会は、最寄りの駅から精神病院の間にカトリック教会があって、その病院でお医者様が教会へ行きなさいと勧めるから、その教会は患者さんがいっぱい来るそうです。わたしの所にはいろいろの方が来て、興奮状態の方もおられるので、わたしはいつも聖水と十字架を手にとれる所に置いてあります。面談中に急に興奮してきたらすぐ聖水と十字架をとります。 興奮してきて、自分を追い出さないでくれとか、話しているうちに目の色が変わったり、獣のように歩き出したりとか、とにかくあまりに色々なケースがあるので、とにかく聖水と十字架を横に置いてあります。わたしも半年間ストーカーにあって、とにかく一日中見張っているんです。さすがに参ってしまい、最後は警察のお世話になりました。そこまで行くケースはそれほどないけれども、近いケースも案外あったりします。 それでもイエス様は対話されています。誰と話されているか分かりませんが、本人なのか本人の中にある罪なのか 悪魔なのか。でも関わり合うわけです。 どんなに錯乱状態でも自分を分かっている。だから絶対誠実に向き合わなければなりません。興奮しているように見えてもそういう方は、あの医者はどうだとかあの信者はどうだとかおっしゃいますが、大体当たっています。 先ほどから対話は成立しないと言っていますが、でも魂の響き合いのような、何かその人を受けとっているか受けとっていないかは絶対伝わっています。支離滅裂なことを喋っているようでそうでもない。そういう方は何時に来て下さい、と言っても来ないで、全然違う時間に突然入ってきたり、急にしゃべりだしたりします。それでも何かを求めていて、どうにかしてほしいという気持ちはある。だから向き合う必要性はあります。 何かは必ず伝わるし、こっちが否定的だとすぐ伝わります。だからイエス様が誰と対話をしたかははっきり分かりませんが、イエス様はどんな人でも対話が成立しています。いわゆる認知症の方も同じです。混乱されているようでそうでない。そこには人間としての人格があります。だからそこにしっかりと向き合って、その部分と対話できるかどうか。対話、一種のコミュニケーションと言うか、そこにある種の 魂の繋がりみたいなものを見いだせるかどうかが一つの大きなポイントだと思います。       そしてイエス様が名前を聞かれます。「名はレギオン。大勢だから」と答えるんですが、レギオンはラテン語で軍団という意味です。日本で言うと 師団、だいたい一師団が六千人の歩兵部隊で全体をレギオンといいます。 その後に豚が二千匹死ぬという話につながるわけです。でもたった一人の中に悪魔が六千体入っているとは恐ろしいことです。その恐ろしさというのは目に見えないから分からないけれど、この後可視化されます。マルコ 5:11 「ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 イエスはそれを許さないで、こう言われた。『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」レギオンという六千人の兵隊がいる師団だったんですけれども、それがイエス様の力で、二千匹ほどの豚にその霊が乗り移って、そして湖に溺れ死んだ。豚というのはユダヤ人にとっては汚れた動物の象徴なので、汚れた霊が汚れた動物に移った。海とはユダヤ人にとって汚れの世界と言うか、地獄の入り口のようなものなので、そこに戻っていったと描かれているわけです。たった一人の人に六千もの悪霊がついていたということが、 想像を絶しています。想像だけではなしに二千匹の豚がなだれ込んで死んでいく姿で可視化されているわけです。わたしが思うにここは、一人の人の心の病気にレギオンが影響していると考えるべきだと思います。つまりたった一つのことで問題を解決することはできません。たくさんの理由が絡んでそうなっている。たくさんとは想像つきませんが、たくさんの影響の中でわたしたちは生きているので、たくさんの悪影響を受けて一人の人が病気になっていることを示しているのではないかということです。だからたった一人の人に六千もの悪霊がついているとしたら、それに関わる人も レギオンに巻き込まれる可能性があると思います。だからわたし自身もいつダウンするかわからない気持ちの中ですし、いつ自分はレギオンにやられるかわからない。六千もの悪の力が働いているということを意識した上で、どのように関わるか、どのようにするかということを考えなければならないし、六千の隠れているものを二千匹の豚ということであらわされるわけです。わたしたちは様々な角度から一人の人がそのようになったということを認めなければなりません。引きこもりという名称が出だした頃はだいたい親の教育が悪いと言われました。あるいは本人が怠けていると一昔前は言われていました。だけれどもレギオンが働いているからそうなっている。いろんな原因が複合的になっているので、それをたった一つの事に還元して、 本人が悪いとか親が悪いとか、還元主義と言うんですが、一つの事に限って誰かを悪者にしても何の解決にもなりません。むしろ一人の人が悩んで苦しんでるのは様々な悪の力が働いているから、学者や専門家の意見も聞きながら、複数ある問題をみんなで明らかにしながらそれをどう取り除いていくかということを全体的にやらなければならないのが、大きな癒しに向かっての道のりだと思います。心理学の発達とかは非常に役に立ちます。レギオンを明らかにするために。例えば最近よく言われる発達障害が色々分かってきて多くの人と分かち合えるようになったことが、問題が可視化され、理論化されて明らかになった事でそれを知る事によりわたし自身もだいぶ救われました。少し気になる人がいたらあの人は発達障害だからと理解し、ではどうすればいいかということを現代になって初めてわかったことです。レギオンというのは積み重なった問題である。でもいろんな人のたくさんの努力で分かってきたことを活かしていくことが必要だと思います。 以前に来られた女性は、カトリック信者さんの夫婦で、旦那さんが大きな問題を抱えていてどうすればいいか分からないということを切々とわたしに訴えていました。そして話を聞けば聞くほど旦那さんは発達障害かなという気がしてきて、たぶん発達障害というのがあるからそれを調べて、ご主人はそういう性質でそうなっているんだからこう関われば問題ないでしょう、と言いました。その方は日本人ではなく、Developmental disabilityを調べてくださいと言いました。その方は自分の国の言語で調べて、最近は教会にニコニコして来られました。何も変わらないけれどもご主人がそうだとわかって、そのつもりで関わるようになれば別に問題ない。でもそれは発達障害ということが理論化されてわかって、わたしのような素人でも知れる時代に なっているので、それだけで助かる人もいる。だから様々な原因をなるべくお互いシェアしながら、分かち合いながら、専門家も必要ですし、そういう中でいろんなことが分かってくると思います。最近になって発達障害ということが分かって納得することがあります。あと多動の子供にみんな悩んでいます。でもそれは多動なんだということが分かり、では多動の子供にどう接すればいいかというのが専門家の指示があるのでそれを参考にすればわかるわけです。様々なことに様々な見解があるし、それを組み合わせていくならば、解決方法がいつもいつも分かるわけではないですけれども、多角的に物事を考えて、一つの事を複眼的に、あるいは人の知恵を借りることによって様々なものが見えてくるわけです。それをわたしたちは大事にできればいいと思います。そしてそのレギオンを追い出せるのはイエス様だけだということです。 イエス様はいとも簡単に追い出しているわけですけれども、 やはりそこに神様が働いてくださるということが、つまりこんなにレギオンに責められたら人間では太刀打ちができない。自分が人の問題に巻き込まれて自分が鬱になってしまうことはありますから、自分で何とかしようと思うのは大きな間違いです。そこに神様の力が働いて人々は癒される。解決方法が分かるわけですから、わたしたちの中心は祈りだということです。いろんな原因を知るために専門家の意見を聞いたりして、本人の事を色々知った上で どれだけわたしたちは祈りにすがるか。その人のためにどれだけ心を持って祈れるかということが大切なことではないかと思います。だから先ほど言った悪魔に憑かれていると自称している人は、人格が変わっていくから聖水と十字架で お祈りするしかないんです。そうしていると2時間3時間になってしまうんです。面接も1時間と決めているんですが、興奮状態でこのまま帰すわけにはいかないので、何とかしてその人を沈めて帰さなければならない。とにかく言葉が通じないから一生懸命お祈りするしかないです。そういう方は半年に一回では間に合わないので何回か丁寧に面談していきます。何が原因かはわかりませんが、祈りでおさまることであればいくらでもお祈りをして、それにより変わるか変わらないかは人により様々で、祈りが効いているように見える人もいれば、効いていないように見える人がいて様々です。病気で悩んでいる方で 座っていられる方は頭に手を置いて按手してお祈りします。それだけで気持ちがおさまって帰られる人もおられるます。なので教会のお祈りの一つは神様のお祈りなので、それをなるべく使えるだけ使って少しでもその人が変わっていくならばいいのではないかと思います。そして ゲラサの話に戻ると、癒したイエス様が追い出されるのです。レギオンを追い出したんだから感謝されるはずなのに、豚が二千匹死んでしまったので、逆にみんなが気味悪がって、イエス様をここから追い出すんです。レギオンは何なのかということでいろいろ議論がありますが、レギオンはラテン語でローマ帝国の師団の名前です。だから社会派の神父様方は、レギオンの力は明らかにローマ帝国支配そのものだと、その通りだと思います。 六千人のレギオンがこのパレスチナ一帯を支配していた。各 村々 に百人隊長が別れていて全体で六千人で 東方から攻めてくるローマ帝国を守るために一レギオンがいた。ローマ帝国全体では12レギオンぐらいであちこちの地方にあって防衛体制を整えていますから、社会派の神父様方に言わせると、これはローマ帝国の支配の象徴である。このレギオン支配と解釈することも有り得るわけです。そして 男の人一人に悪魔がついていたのは、一人の人だけの問題ではないです。レギオンというのは六千もの力が政治的なことだけではではなくて、 地方一帯を支配している力のようなものが レギオンだと言わざるを得ない。一人の人の話だけはではない。日本の社会全体にレギオンの力が働いているから、これほどたくさんの方が病気になられている 。あと一人だったら特殊な例でしょうが、百万人単位で病気があるということは、例えば日本だったら日本そのものにレギオンが働いていると考えなければなりません。だからイエス様が追い出される理由がわかります。どうしてか、レギオンに反対しているからです。逆に言えば多くの人はレギオンに支配されています。そしてレギオンを打ち破るイエス様を みんな避けたくなります。というのがこの話の結論に出てくるわけです。わたしたちは病気であろうと健康であろうとレギオンの支配下にいて、ある人には症状としてはっきりあらわれるわけですが、わたしたちみんな日本にある社会的なレギオンに少なからず悪影響を受けているわけです。イエス様はそれと戦っておられたから排除されているわけです。わたしたちはレギオンの側に生きるか、イエス様の側に生きるかということが問われています。この世の価値観というのはいろんな形でつくられているわけです。いい大学へ入らなければならないとか、お金儲けしなければならないとか、全部合わせてレギオンというものでつくられていて、 わたしたちはその中で生きて、その中にいわば巻き込まれているような ことがある。それは政治的な経済的な心理的な霊的な 日本の文化的な様々な要因を考えたら、やはり六千ぐらいあると言ってもそれほど大げさではないかもしれない。やはり子供の頃から受けていた教育とか価値観とかあり方とかテレビや今ではネットで流れてくる様々な影響とか、わたしたちはそういうようなものの中で生きて、そのようないわばイエス様の価値観ではないものに、大きく影響を受けているということを認めなければならない。もっとそこを意識するように問われているのではないかと思います。

 次は洗礼者ヨハネのところ マルコ1:1「神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。〈主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。〉』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。』」二千年前の洗礼者ヨハネはどういう人かは信者さんはご存知でしょうが、 現代の社会で洗礼者ヨハネとは一体誰なのか。どういう人を預言者、あるいは洗礼者と呼ぶのか。このことを長い間考えていて、わたしの拡大解釈ですが、今のところは洗礼者ヨハネは病気の人である。しかも心の病を持った人が洗礼者ヨハネではないか、と今は考えています。人が住むような所ではない荒野に住んでいて、着ている服もらくだの毛衣だし、食べ物もいなごと蜂蜜だし、山伏のような修行中のような人は日本にもいたでしょうが、わたしが思うに洗礼者ヨハネは病気の人、しかも対話が難しいぐらいの重い病気の人が洗礼者ではないかと思っています。わたしたちはレギオンに支配されています。 わたしはそういう人たちと日々接しているので、病気の人の方が正常ではないかと思うくらいです。つまりこれほどいろんな悪いものがありながら、普通に生きていられる人の方が少々鈍感なのではないか。 病気になる人の方が自然ではないかという気がします。当時はエルサレムの神殿へ行けばいいのに、なぜ洗礼者ヨハネはわざわざ荒野に行かなければならなかったのか。わざわざそこで悔い改めの洗礼を授けなければならなかったのか。洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」わたしたちに言っているわけです。病気の人がいれば病気を治さなければならない。この人たちがどうまっすぐに行けるようにするか、一生懸命に考えて、もちろんそうしなければならない。でも治らない重い人は山ほどいる。治らない人々の存在が荒れ野で叫ぶ者の声ではないか。誰が悔い改めるのかと言ったら、わたしたちが悔い改めよと、彼らが叫んでいるのではないかと 思うことはとても多いです。どちらが悔い改めるかと言ったら、健康な人ほど悔い改めなければならない。重い重い病気を持っている人に接することによって、わたしたちの方が悔い改めるチャンスが与えられているのではないかと考えた方がいいのではないかということです。  ある方はおそらくプロテスタントの方だと思いますが、その方が言うには、自分の望みは簡単で、ちゃんと仕事をしてちゃんと結婚したい、普通に生きたいと、わたしに彼はさかんに言っていました。つまり心の弱さがあって仕事が続かないとか、なかなか結婚相手が見つからないとか言っていました。何回も会っているうちに、彼に普通に生きるならばクリスチャンではなくてもいいのでは、普通に生きないためにクリスチャンになったのではないかと逆に言ったんです。職場で働けないとしたら、自分の生き方を変えて、普通に生きるのはやめて 、自分に生きれる生き方に変えれば、それで問題ないのではないかと彼に言いました。でも彼に言ったあと、自分自身も普通になりたいと 言っていたなと思い出しました。若い頃から体が弱かったので、とにかく長い間、普通の神父になりたかったんです。普通の神父のようにバリバリ働けなくて若い頃は悩んでいました。若い青年に普通に生きるなと言ったんですが、自分も普通に生きたいと捕らわれていたことを思い出しました。 わたしたちは普通に生きようとするから、先ほど遺産相続の話をしたんですが、結局は同じ話かもしれない。つまりこの世の価値観に縛られて普通にとか、他の人と同じようにしようとするので、わたしたちの苦しみが増すんです。病気になったり病気の家族がいることによって普通をやめて、そこに示されている神の御旨を生きようとする時に、悔い改めがあります。悔い改めの洗礼を起こさせてくれるのが洗礼者ヨハネです。 その人に触れて悔い改めて、主の道をまっすぐにする生き方 は、どれなのか問われてくるのです。自分のことでも家族でも周りのことでも、そこから神の国が始まってくると思います。引きこもりになると何年単位で、一年二年では出てこれないわけです。そうなったらわたしたちは普通とかを置いといて、もっとどうすればいいのかと、主の道をまっすぐに探さなければならないけれども、自分たちの生き方そのものを最初から見つめ直して歩む時に、わたしたちに示されてくるのではないかと思います。だから荒野で叫ぶ声なんです。主の道をまっすぐにせよという声なんです。そこに関わる人がみんなで主の道を探して、どう生きればいいかということを求めていく。わたしたちの信仰の第一は悔い改めでしょう。罪の悔い改めというのは、プロテスタント、カトリックは共通して変わらない。でも悔い改めるチャンスなんです。生き方を変えていく大きなチャンスがわたしたちに与えられています。それを受け取るかどうかではあると思います。口で言うほど簡単なことではないかもしれません。わたしは以前一時期、釜ヶ崎のホームレス支援の仕事に関わっていました。いろいろやっていたんですが、なかなかうまくいきません。聖書の勉強会をやっていて、信者さんもいるけれど、近くの人も来て、脈略なく質問したり発言したりして、勉強会なんですがいつも何かが起こって盛り上がって終わっていました。釜ヶ崎では集まりをしていても、急に酔っぱらいが入ってきて大変になって終わるとか、しょっちゅうだったんです。だから聖書の勉強会もうまくいかない。 聖公会の牧師様の息子さんとパートナーで教室をしていましたが、その彼が「なかなかうまくいかない。さすが釜ヶ崎だな。」と言っていました。その言葉でなんとなく吹っ切れて、普通にやろうと思うから苦しむだけで、そこで何かが伝わったら十分だろうという気持ちになりました。それから普通の社会では60点でも80点とらないとだめだからもう20点頑張りましょうとかがある。 釜ヶ崎にいたら20点あったら よしとして、今日はもう神に感謝という気持ちでいようと、ちょっとでもうまくいっただけでいいだろうという気持ちになりました。それはいろんなことにも言えると思いますが、いろんな人に接することによって自分自身が結局は変えられていくような、お恵みみたいなものに繋がるのではないかと思います。釜ヶ崎時代はホームレスの方と深く関わったんですが、今思うに、大半の方は発達障害とか依存症とか精神疾患の方々と思います。だからほとんどの方々は心の問題なんです。人間関係など協力してできる人はそうはならないです。それは彼らの性格なんだから認めた上で、なかなか対話が難しいとか、座って話が聞けないとか、すぐお酒飲んじゃうとか、すぐ暴言吐くとかいろいろありましたが、それはその人たちの性格なんだから 、その中で20%ぐらいできることをやれば、それで神の国があるみたいな気持ちになっていました。今の苦しみの中から回心しながら、神の国を求めて行くならば、何か光が見いだせると思います。   最後にイザヤ53 章、朗読は省きますが、有名なところで主の僕、キリスト教ではここをイエス様のこととしていますが、当然ユダヤ人はそうではありませんが。ここもいろいろな説があって、イザヤ自身が自分の事を言っているのではないかということもあれば、イスラエルの民全体を指しているのではないかとか、将来のメシアを指しているのではないかとかいろいろあります。少なくとも心の重荷を持っている人も、主の僕の一人として認められるのではないかと今は思っています。他人の苦しみを背負っている人ということなんです。例えばイザヤ53:4節ですが 「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」あるいは10節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。」11節「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」つまりいろんな人々の罪や苦しみを特別に負う人がいる。これが主の僕だと、イエス様だとクリスチャンとしては考えています。これがイエス様だけだとは書いてありませんが。  なぜこのように思うようになったかと言うと 、精神科医の方が書いたある本で、統合失調症の方で徘徊の癖がある。家を飛び出してどこかへ行ってしまうというので、精神科のお医者様は彼がどこを徘徊するのかを追跡調査しました。彼は元々山だった新興住宅街に住んでいて、人が通らない経路を歩いていました。調べたら彼が歩いている経路は、昔の山伏が歩いていた経路と全く同じだったという研究報告だったんです。それからわたしは物事の考えを変えたんです。病を負う人というのは宗教的な生き方をしているのではないかと思います。だから特別なことではないかと思うようになりました。例えばリストカットをする人は、 カトリックの伝統で言えば鞭打ち、苦行です。わたしの少し上の先輩は、自分の背中を打つ鞭打ちをやっていました。あるいは不眠症は徹夜のお祈り、古代からやっている苦行の一つです。あるいは摂食障害は断食。徹夜、断食、鞭打ちは三大苦行で、カトリックは長い間やっていました。時代が変わって現在はあまりやっていません。あるいは引きこもりは隠遁生活。もちろん病気は皆さんしない方がいいですけれども、病気の症状はある意味宗教的な要素がそのまま表れている。しかも膨大な数の人が、昔、修行者がやっていた苦行をいわば代わりにやっています。なんで昔、修行者が苦行をいっぱいやっていたかと言うと、罪の償いのためなんです。自分の罪だけではなしに、人類の罪の償いのために、イエス様と心を合わせて していた。だからイエズス会でも 断食とかを、年に何回するとか決まっていてやらなければなりませんでしたが、今ではあまりやらなくなりました。だから人類が持っている負のものを、誰かが背負わなければならない。ある時代は 修道者が宗教的な苦行としていた時代もあるでしょうし、でも今は宗教的な力が弱いので、ある特別な人々がいわばそれを担っているようにも思います。これは単にわたしの仮説ですので、証明することは全くできませんので、それをみなさんに押し付けるつもりはありません。だからこそわたしたちは彼らと共に、復活を目指さなければなりません。 わたしたちの信仰は十字架を通して復活していくんですから、 そのような苦しみを担っている人々、自分自身も含めて、そこからどう復活の恵みに向かっていけるかというのを、祈りと信仰と様々な工夫をしながら共に歩む。復活の恵みを目指していくというのも確かなことではないかと思います十 

 

 イザヤ書 53章1-12節

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうかわたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かずその口に偽りもなかったのにその墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった十

                                                                          

 

 2018年 10 月 26 日(土)
 講演会「心に重荷を負う人と共に」

 第5回デール記念講演会 日本福音ルーテル東京教会 於                   
   イエズス会 英 隆一朗  カトリック麹町教会 主任司祭 講演記