カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2019-03-31 全部お前のもの

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於  

     youtu.be

ルカによる福音書 15章1-3、11-32節(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」+

 今日の福音書は放蕩息子、ルカの福音書で最も有名なたとえ話の一つだと思います。 お金持ちのお父さんに二人の息子がいて、弟はお父さんのお金を散財して、全てを失って家に帰ってしまった。お兄さんは真面目でお父さんの言うことに背くことなく、ずっと真面目にやってきたわけです。でもお兄さんは弟がお父さんに優遇されていることに対して「怒って家に入ろうともせず」怒りの気持ちに捕らわれてしまった 。いかにも兄弟でありそうなお話で、どちらの方が親から愛されているのかひいきされているのか。どちらかが嫉妬の気持ちが湧くというのは人間の中にあり得ることの一つではないかと思います。お兄さんの怒りというのは怖いことも含んでいるということです。お兄さんのこういう気持ちが様々な形で差別を社会に生んでくる一つの気持ちの発端みたいなところはあるのではないかと思います。   今、公開されている映画でスパイク・リー監督の「ブラック・クランズマン」という映画があります。1970年代の実話に基づいたお話で、 KKK というアメリカの白人至上主義団体で、人種差別をする団体があります。そこにアフリカ系アメリカ人とユダヤ人の 刑事が潜入捜査するお話です。わたしは嘘をついて入っていく潜入捜査はあまり好きではないですが、とても印象的な映画です。70年代の話ですが、結局は今のアメリカの政治のことも話しています。いかに今の差別と変わっていないという気持ちがしてとても重くなりました。何で差別をするのか。たとえばアメリカだったらなぜ白人がアフリカ系アメリカ人を差別するのか。今日の福音の話でいうと弟の方が優遇されている。後から来たのに特別に優遇されて、白人の自分たちが冷や飯を食べているという発想からくる、とても差別的な考えに基づいています。さらに3月にニュージーランドのクライストチャーチ、街の名前がキリスト教会という街ですが、イスラム教のモスクに、白人の男性が銃を乱射したわけですが、それも全く同じ発想でしょう。つまり自分たち白人だけのところに、アラブの人たちが勝手に来て、彼らが優遇されているという怒りの発想からそのような犯行に及んだ。お兄さんの立場に立っている以上、争いと差別が終わることはないということです。一緒に暮らしている者、近い者に対して差別の気持ちが人間には湧いてくる。家族の中とか職場の同僚とか教会の仲間に対して同じような怒りが、わたしだったら修道院の仲間に対してそういう気持ちが湧いてくることはあり得るわけです。これこそがわたしたちが一番回心しなければならない点だと思います。これは弟の回心を言っているようで、一番深刻で一番回心が必要なのはお兄さんなんです。 お兄さんは怒って家に入ろうとはせず、拒否してしまうわけだから。少し怒っているぐらいならいいですが、人を差別したり痛めつけたり陰口を言ったり、そのようなこと自身が現代社会のわたしたちを暗くしている大きな問題ではないかと思います。わたしたちがどれほど回心を必要としているかということを、それをしっかりわたしたちが受け止めなければならないことでしょう。差別的な事件が起こる度に、わたしはこのお兄さんの話を思い出します。わたしたちはその中で何をしなければならないか。一番思うのは、この底抜けに心の広いお父さんの気持ちに、わたしたちは心を合わせることだと思います。お父さんがどれほど親切な人なのか。弟にも生前分与で財産を出しているわけで、弟が散財したのをあわれに思って、服を着せてご馳走を食べさせた。お兄さんが怒って家に入ってこなかったら、お父さんはわざわざ出かけて行って、「わたしのものは全部お前のものだ」と。お兄さんであろうが弟であろうが、真面目であろうが不真面目であろうが、人種がどうであろうが。あるいは貧しい人であろうがお金持ちであろうが、頭が良かろうが悪かろうが、全ての人を等しく愛している大きな大きな神様の心 。そこにわたしたちの心を合わせる時こそ、わたしたちは差別意識や小さな怒りや嫉妬心や、何かモヤモヤした気持ちから解放されるのではないかと思います。神様はケチな方ではないということです。   わたしが高校生の頃、神戸に住んでいたんですが、そこは山の中腹ぐらいで、さらに山の上の方に行くと、神戸港とか大阪湾が見渡せる場所にたどり着きます。そこで景色を見ていると、自分の小さな問題がバカバカしくなってくる。大きな大きな世界があって、大きな大きな神様の心があって、わたしたちは小さなところで、あっちが得しているとか、こっちが損しているとかで喧嘩して悩んでいる。それは本当に神様の大きな心から見たら、ごくごく小さなことではないか。わたしたちは自分のイライラや捕らわれ、差別したとかされたとか、そういう小さな視点に立つのではなくて、このお父さんの、父なる神様の大きな視点に立つ時に、わたしたちは苦しみから捕らわれから解放されるのではないかと思います。ここでお兄さんに向かっていうわけです。「わたしのものは全部お前のものだ」その通りで昔の日本と同じで、ユダヤの伝統で長男が全部相続します。弟の取り分は少しだけです。弟の分は無くなっても、お父さんから見たら大した財産ではなくて、ほとんどの財産は長男が全部引き継ぐんです。「わたしのものは全部お前のものだ」本当にその通りで、お兄さんがどれほどお父さんから恵みをもらっているということを忘れてしまって、それで弟の取り分か何かでイライラしている。弟の取り分はほんの一部です。洗礼を受けている方が多いと思いますが、みんな神様の子供でしょう。父なる神様の子供なんですから、皆さんは神の恵みをただで相続できているんです。神様はわたしたちに言うんです。「わたしのものは全部お前のものだ。」神様がみなさんにも言ってくださっているんです。ありあまるほどのお恵みを、わたしたちは神様から相続できる立場にあって、恵みをもらって生きているわけです。神様の無限の恵みをわたしたちは子供だから相続できるわけです。その恵みの大きさに心を向けたいと思います。 日頃日常の生活の中で子ヤギ一匹くれなかったとか、わたしたちもそういう気持ちでイライラしたり色々ありますけれどもでも、莫大なお恵みを、わたしたちはただで相続できるんです。子供というのはそういうもので、相続するというのはただでもらうということです。お金持ちの両親だったら莫大な遺産を子供だからというだけで本人の努力とか関係なしに遺産を相続されるわけです。わたしたちは神の子供なのでケチくさいこの世の富の話ではなくて、神様の溢れるばかりの恵みをわたしたちは相続できるわけです。その恵みの世界を歩いているということを思い起こしましょう。そして小さな捕らわれや小さな競争心や嫉妬心が様々ありますが、それらを置いて、神様の大きな恵みを相続して、神様の本当のあたたかい大きな心を相続して、神様の大きな心で歩んでいけるようにお祈りいたしましょう。小さなことで悩んでいるよりその方が楽です。感謝の内に歩んだ方が絶対幸せだと思います 。そのような恵みの中にわたしたちはあるということを思い起こして、それを感謝の内に歩んでいけるように、そのような形で残りの四旬節を悔い改めとか節制とかしますけれども、神の莫大な恵みの中でわたしたちは歩んでいる。そのような気持ちで日々の生活を、この一週間、神と共に歩めるように、神様に祈りを捧げましょう 十

  第一朗読  ヨシュア記 5章9a、10-12節
(その日、)主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」
イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 第二 5章17-21節
(皆さん、)キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです

 

2019年 3 月 31 日(日)18:00 ミサ 
  四旬節 第 4 主日〈紫〉C 年 
   カトリック麹町教会 主聖堂於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記