カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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190407 石ではなく花を

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於 

ヨハネによる福音書 8章1-11節(そのとき、)イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」+

 今日の福音書はヨハネの福音書8章の冒頭のところ、非常に印象深いエピソードだと思います。神殿の境内でイエス様が話されている時に、姦通、今の言葉で言うと不倫をしている女性が現行犯で捕まったわけで、当時の法律からすれば、相手の男性もそうですが、不倫をした人は死刑になると決まっていたけど、死刑になると分かっていた上であろうと思われます。しかも当時の死刑でこういう犯罪の場合は石打ちの刑 で、現代からは想像しにくいですが、みんなで石を投げて殺したという、残酷な公開処刑のような形をとっていたわけです。 「こういう女は石で打ち殺せと」定められていて、イエス様を試そうとして、難題をふっかけたような形になります。 その時にイエス様はそのことに直接答えないで、かがまれて地面に何かを書いておられたということで、わたしたちの視点をずらすような、想像を超えた態度をとって、そして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とおっしゃいます。相手に投げようと思った石が、自分に返ってしまうような、誰も石を投げることが出来なくなったという印象的なお話です。石を投げるというのは現代的に言えば残酷ではあります。でもわたしたちも様々な形で石を投げていると言えるのではないかと思います。不祥事とか問題とかを起こした人が、記者会見をして謝らなければならない。謝罪会見をしなければならない。日本の場合は、なぜ謝罪会見をしなければならないか理由がわかりませんが、誰に謝らなければならないかといったら、日本の場合は世間に謝らなければならないわけです。被害者に謝るならともかく、なぜか皆さんに謝らなければならない。その謝罪がきちんとしなければ、避難され、ネットで炎上するわけですが、個人的に疑問があるのは、 なんでそこまでして第三者が石を投げなくてはならないのか、その人に対して怒りをぶつけなければならないのか、非常に大きな疑問点が昔からあります。自分に関係して被害者の立場なら分かりますが、全く関係ない、現代では不倫は犯罪ではないですが、個人的なことについて、なんで赤の他人が一生懸命に石を投げ続けなければならないのか理解に苦しみます。でもわたしたちは、度々石を人に向かって投げているのは事実ではないかという気がします。物理的に石を投げるのではなくて、ネットでとか悪口を言うとか、様々な形で石を投げあって、傷つけあってしまっているということが、わたしたちの中にないとは言えないと思います。その時にイエス様はこの石を投げさせないような、そこに神様の大いなる赦しの心があらわれていると言えるでしょう。イエス様は石を投げることそのものの偽善性が明らかにされて、誰も石を投げられなくなった、赦しの状況が突然生まれたというわけです。イエス様がわたしたちに伝えようとしているのは、まさしく石を投げない世界。そこには大いなる赦しの心があるときに、このような世界が生まれてくるでしょう。イエス様の素晴らしさは、石を投げない、いわば赦しの世界をわたしたちに示されたと思います。この姦通の女のことを考えると、一番思うのはロシアの小説家のドストエフスキーで、難しい長い長い小説を書いたロシア正教会の信徒でもあります。彼は若い頃、帝政ロシアのニコライ大帝の時代で、それに対する体制批判のような、今でいう学生運動のようなことをしたことによって、彼と仲間が、国家の反逆罪で逮捕されて死刑判決を受けましが、多分、元々ニコライ大帝は彼を殺すつもりはなかったのだろうと思います。それは少し芝居がかっていて、彼らは処刑場まで連れて行かれて、当時のロシアは銃殺刑でしたが、銃を向けられて殺される寸前に、皇帝の伝令が来て死刑をしないという恩赦をもらった。その体験をドストエフスキーはこの女性のように、殺される寸前に赦しを得るという体験をするんです。 その体験も彼の中で大きな影響を与えたと思われますが、ドストエフスキーの難しい小説の一つの大きなテーマは明らかに、神様の赦しの心がどれほどあるかということを描かれていると言われています。そのように読み取るかは人によって違うかもしれませんが、それは彼の大きな体験からきているのではないか。死刑宣告されるけれども死刑にされない、恩赦をもらって生き延びることができた。この姦通の女もここでイエス様から赦されたということがどれほど大きな体験だったのか。そのような極端な例はわたしたちにはあまりないかもしれませんが、クリスチャンとして生きている恵みの一番大きなものの一つは、わたしたちは、赦されて生きているということです。様々な失敗や様々な罪や、表だって言えない秘密の失敗があるかもしれませんが、それらすべてをわたしたちは赦されて生きている。石を投げないで済む世界を与えられているということです。でも人に石を投げないで自分に石を投げている人が時々おられます。過去のことにとらわれたり自分に石を投げ続けている人もいるし、あるいはそれが十年前のことでもいまだに心の中で石を投げ続けていて、怒りや憎しみから解放されないという方を時々見受けられます。でも基本はわたしたちは赦されて生きている。そして人を赦して生きることができる。その恵みが与えられているという。怒りと憎しみを超えた神の恵みの世界を生きることができる。その世界をイエス様がまさしく 示してくださり、イエス様はその恵みを今日もわたしたちに与えてくださっているということです。これは本当に大きなお恵みで、赦されている喜び、赦されて生きる感謝の生き方が、わたしたちには与えられているということです。イエス様は石を投げる代わりに、赦しと愛の恵みを分かちあわれた。そしてわたしたちも、心の中で誰かを銃殺する代わりに、神の恵みを分かち合う。石を投げるのをやめて、わたしたちはその世界に呼ばれていると思います。   今日はヨセフホールで子供の絵の展示をしていました。一番印象的だったのはボスニアの子供の絵が飾ってあって、日本の子供がなかなか描かない絵です。戦争とかそういうものが描かれていて、一つの絵には拳銃が描かれていました。日本の 子供の絵では、まず拳銃の絵を描く子供はほとんどいないと思います。わたしが一番好きな絵は、拳銃が描いてあるけれども、拳銃の銃口から花が出ていて、花の先に女の人がニコッと笑っていた、それが一番気に入った絵でした。石を投げたり銃を打つよりも、わたしたちは花とか愛とか喜びを分かち合うように呼ばれています。どんな状況にあろうともです。それをするならわたしたちの心の中も平安な心になるし慰められるし、周りの人にもそのような慰めや赦し、愛の世界が広がってくると思います。それをわたしたちは分かち合いましょう。石を投げるよりも花束を分かち合う方が、どれほど自分にとっても周りにとっても健康的で健やかに生きられるかということです。そしてわたしたちは平和をつくっていかなければならないということも明らかでしょう。様々なテロとか殺人事件とか、そのようなことが度々ありますけれども、わたしたちはそのような悲しい現実を乗り越えて、愛と平和を分かち合っていくそのような世界を、このイエス様の力に支えられながら、恵みに支えられながら過ごしていくことができるように、共に祈りをささげげたいと思います十

 

第一朗読  イザヤ書 43章16-21節
主はこう言われる。海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し彼らを倒して再び立つことを許さず灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 3章8-14節
(皆さん、わたしは、)わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです+

 

2019年 4 月 6 日(土)18:00 ミサ 
  四旬節 第 5 主日〈紫〉C 年 
   カトリック麹町教会 主聖堂於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記