カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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190623 堅信式ー菊地功 大司教様

菊地大司教様 説教 イグナチオ教会 於

ルカによる福音書 9章11b-17節(そのとき、イエスは群衆に)神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった+

  今日の御ミサの中で、堅信の秘跡を受けられる方々が141名おられると伺いました。141名の堅信を受けられる方々に、心からお祝いを申し上げたいと思います。141名もいるということは、そこには141通りの信仰の出会いの物語があり、141通りの信仰の歩みがそれぞれあるのだと思います。みな同じイエス・キリストを信じているというところでは変わらないのでしょうけれども、イエス様にどこでどのように出会ったのか、そしてイエス様をどれくらい理解しているのか、というあたりでは一人一人に違いがあることだと思います。でもその141通りの違うイエス様との出会い、イエス様における信仰、その違いがあるけれども、一つのことでは みな同じように役割を与えられていると思います。その役割は一体何なのかといえば、先ほど朗読でパウロのコリントの教会への手紙が読まれましたが、 今日はキリストの聖体、御聖体の祝日でありますので、パウロのコリントの教会への手紙は、最後の晩餐における主イエス・キリストによるご聖体の制定の物語でありました。そしてそれはわたしたちがミサに預かる度ごとに耳にしている、司祭が聖変化の時に唱えるあの言葉でありますけれども、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」そして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 パンはご自分の体、そして杯に満ちたぶどう酒はご自分の血であると言われ、ご自分の体をわたしたちのために渡してくださった。そのご聖体の制定の出来事が起こった、最後の晩餐が今日のパウロのコリント人への手紙の中に記されています。問題はそこに書かれている「記念として」と書いてあります。「記念」とは何とか記念日「わたしの記念としてこのように行いなさい」「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」記念と書いてあります。ミサの中でも記念という言葉を司祭は唱えます。「わたしの記念としてこれを行いなさい。」記念とは何をどうしようと言っているのか。ミサの中でも、さらりとこの部分は過ぎ去ってしまう言葉だと思います。でも考えてみたら、イエス様ご自身はもうこれで最後だ。 弟子たちと生きている間に食事を共にするのは最後。すなわち弟子たちに教えを伝えるのは、これが最後のチャンスだということをよく知っておられたわけです。その上でこれが最後だという思いを込めて、弟子たちに対して記念として行う。その記念とは何なのか。「忘れるな」ということです。わたしが今まで語ってきたことを、わたしが行ってきたことを、あなた方が目の当たりにしてきた出来事を、決して忘れてくれるな。というイエス様の切なる願いがこの記念としてという言葉には込められていると思います。そしてその記念は誕生日とか、何かの出来事の記念日とか、自分の内輪でお祝いをするものではないのです。あの最後の晩餐の日に、イエス様はこんなことを言ったんだ。すごいな、と言って自分の心の中だけでお祝いをすることではなくて、実はこの記念は外に向かっての記念なのです。どうしてそう言えるかというと、そのパウロのコリント人への手紙の続きの部分に、パウロはイエス様の言葉に続けて「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」と記しています。決してパウロは、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、」内輪でお祝いするんです。とは言われないんです。「主の死を告げ知らせるのです。」 と記しています。すなわちこの記念は、ああ、すごいことがあった。と言って、自分の心の中でそれを覚えているだけにとどまらず、そこから外に出て行って、何が起こったのか、何が言われたのか、何が伝えられたのかを他の人たちに告げ知らせていく。他の人たちにそれを教えていく。それが記念の意味であります。従ってご聖体を受ける時にわたしたちは、ただ単にイエス様がわたしたちに来てくださった。イエス様がわたしと一緒にいてくださるといって、自分の心を満足させる。それも重要なことだし、主がいつもいてくださるということを心で感じる、それもとても重要なことです。けれども そこにとどまっていたのでは、イエス様が最後の晩餐に言われた記念としてそれを行えというところには足りないわけです。わたしたちはあのイエス様の言葉に従っていくためには、イエス様が来られるまで、つまり世の終わりまで何が言われたのか、何が伝えられたのか、何が起こったのかを多くの人達に宣べ伝えていく義務を背負って生きているんです。今日、堅信を受けられるお一人お一人は、聖霊はその秘跡によって豊かに与えられる。そして聖霊による様々な賜物が与えられることになります。あちらの台にはろうそくが並べてあって、聖霊の七つの賜物が記されています。弱い人間であり、力も足りない人間であるわたしたちが、イエス様がおっしゃったことを、たくさんの人に告げ知らせるなんて、とてもとてもできることではないと、おじけづく時に、この堅信の秘跡によって与えられる聖霊の力がわたしたちを後ろから押してくれるんです。聖霊を受けたから、急に今日からスーパーマンに変わるわけではないです。聖霊を受けたら急に言葉ができるようになるとか、何かすごい力をもらう とかはないのです。そうではなくて、わたしは何と弱いんだと思った時に、わたしは何もできないと思った時に、聖霊が後ろから一生懸命支えてくれるんです。後ろから後押しをしてくれるんです。何を後押ししてくれるかというと、イエス様が何を言われたのか、イエス様が何をされたのか、わたしたちに何を残されたのか、それを他の人たちに伝えようとする、その心意気を後ろから聖霊が一生懸命になって支えてくれる。堅信を受けられるお一人お一人は、是非とも今日からその聖霊の力を後ろから受けて、 勇気を抱いて、 イエス様の言葉を伝えていく。どう伝えていくのかはお一人お一人それぞれ生きておられる現実の中で考えていただけたらいいと思います。お一人お一人が、日々の生活の中で語る言葉、行いによって 福音の証しをしていっていただきたいと思います。かつては堅信を受けると、キリストの兵士になるんだという言い方もしました。今は堅信を受けると成熟した大人の信徒になるのだという人もいます。まさしくその通りだと思います。一人一人に与えられた義務を、務めを、勇気を持ってしっかりと果たしていこうとする。大人の信徒としてのこれからの毎日の生活を歩んでいただければと思います+

  

第一朗読  創世記 14章18-20節
(その日)いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク(は)、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 11章23-26節
(皆さん、)わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです+

 

2019年 6 月 23日(日)15:30 堅信式
 キリストの聖体〈赤〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
  カトリック 東京大司教区 菊地 功 大司教様 ミサ説教記

     

              

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