カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2019-06-16 三位一体

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

     youtu.be

ヨハネによる福音書 16章12-15節 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」+

 今日の福音書は三位一体のお祝いをする祭日にあたっています。三位一体というのはキリスト教の中でも最も大切な教えであるということも言えます。神様は父と子と聖霊、御父とイエス様の聖霊は神様の本質を持っていて、しかも三位一体の父と子の聖霊のそれぞれのペルソナ、人間でいえば人格をあらわしていて、神様には人格はおかしいので、日本語では位各と訳されていますが、それぞれのペルソナと言うか、パーソナリティと言うか、個性を持っているという教えです。一言で言うとどういう教えなのか。たまたま今年は今年の教会の年間テーマは、共同体を生きるということで、先週も大きなインターナショナルミサをしましたが、三位一体というのは、神様が共同体であるということを示す一番大切なことではないかなと思います。共同体の本質は何かと言ったら、同じ本質を持っているということと、それぞれがペルソナとして人格として関わり合う事が出来る。全ての共同体は本質とペルソナと両方を持たなければならない。だからまさしく神様そのものが理想的な共同体であるということです。わたしたちが信仰共同体を作ろうと思う時に、あるいはそれは信仰だけではなしに、家庭という共同体。あるいは様々なグループを共同体として行く時に、必ず根本にある三位一体的な交わりがあるかどうかということは根本的なんです。その共同体のメンバーが一つの本質とするものを持っていなければ共同体として一致することはありえません。その上で一人ひとりがペルソナとして、人格としてお互いを尊重して互いに助け合うような、そのようなパーソナルな関係を結んでいく。それが共同体としての一番大切なことではないかと思います。それでわたしたちは今日、心にあらためて刻みたいと思います。三位一体の神様をわたしたちは拝んでいるとしたら、三位一体の共同体を生きていくように呼ばれているし、それをすることが出来ると思います。信仰共同体の場合は明らかだと思います。私達が頂いている本質は何かと言ったら、クリスチャンであるという本質です。それをわたしたちは共通の価値として分かち合うことができるということです。私は神父ですので信者でない方の集まりにはあまり行きませんが、高校や大学の卒業生の集まりとかありますが、信者と話している方が、神様を信じている共通の価値観があるから話がはずみます。それはやはり一つの本質をわたしたちは分かち合うことができる喜びが与えられているといえるでしょう。それが共同体の基盤であることだし、そして一人一人がペルソナとして、人格としてお互いを尊重しあって、互いに助け合うことができる。他人を物のように道具のように扱わないでということです。一人の人格として尊敬するんです。そしてその良さをお互いに認め合って、そしてそこから協力したり助け合ったり、場合によっては許しあったり認め合ったりということは、お互いのペルソナとして認めるからです。ペルソナというのは人と人との関係から生まれてきます。自分らしさにしろ相手らしさにしろ、ペルソナということは大いなる意味をわたしたちに持ってきているということです。だから私達は三位一体の神秘をもっと黙想して、それをどう生きているかということを問いかけていく必要性があると思います。そして本質とペルソナの関係をもう一つ言うと、本質というのはあるだけでは意味がありません。例えば洗礼を受けたら、その人がクリスチャンという本質が与えられるわけです。洗礼を受けた神の子としての本質を生きていかない限り意味がありません。ペルソナとして生きない限り本質は眠ったままということです。洗礼を受けて神の子という本質をもらっても、クリスチャンとしての行動を何もとらないと、その本質は宝の持ち腐れのままだということです。本質という事はペルソナとして生きていく時だけに本当の意味を持っていく。だからこそわたしたち一人一人は本質とペルソナの両方が大事なんです。ペルソナを生きていない限り、自分の人間性を人との関わりの中で発揮して使ったり、それを表していかない限り、本質は生きてこないということです。だからイエス様は神様であるという本質を持っているだけだったら、何も繋がらなかったら意味がありません。神様という本質を使って、この世に生まれて、病人を癒し罪人を癒し、パーソナルな働きがあるからこそ神様の本質がイエス様を通してあらわれてくるわけです。だからこそわたしたちは両方を大事にしなければなりません。どういう本質を持っているかということをしっかり受け止めなければならないけれども、その本質をペルソナとして生きていく時に、それが共同体的な広がりであったり、あるいは何か困っている人を助けることであったり。だから三位一体というのは、わたしたちの信仰の心強さそのものを表しています。わたしたちの三位一体の交わりのように生きていけるようにということです。神様が三位一体であるということはどれほど大きなお恵みかということです。まさしく神様の愛であるということがペルソナを通していろんな形で現れている。今もわたしたちに対して聖霊という形で神様の本質が聖霊、ペルソナを通してわたしたちは今も分かち合っていることができる。三位一体というのは力強さです。わたしたちの信仰と共同体を支えている。それをわたしたちも意識して生きていきたいと思います。本質を眠らしたままにしない。本質をわたしたちの人間性を通して表わしていく。分ち合っていく。その中でわたしたちの教会は三位一体に基づく生きた信仰共同体なんでしょう。そのような心でみなさんのご家族、職場、ボランティア活動にしろ、みなさんの関わりも、三位一体の力強さを心がけ、そこで生き生きとした人間関係、生き生きとした神の国に近づいていくのではないかと思います。この三位一体をわたしたちは信仰の基盤として、そこからいつも泉から水を汲むように、この三位一体の信仰を、交わりを日々の生活に、特にこの一週間、それを生きていくことができるように、共に心を合わせて三位一体の神様に祈りを捧げたいと思います+

 第一朗読  箴言 8章22-31節
(神の知恵は語る。)「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったがわたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた 主が天をその位置に備え深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき。御もとにあって、わたしは巧みな者となり日々、主を楽しませる者となって絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5章1-5節
(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです+

 

2019年 6 月 16 日(日)8:30
 三位一体の主日〈白〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記