カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-08-18 ときめく識別

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 12:49-53
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」+

 8月は日本のカトリック教会は平和旬間ということで、ずっと平和をお祈りしてきました。今日の福音書によるとイエス様は「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」平和をもたらすために来たわけではないという聖書の箇所が出てくると、何のために平和をお祈りしていたのかという気持ちもします。確かにイエス様がおっしゃる平和というのは、ありきたりな、事なかれ主義ではないということが言えるでしょう 。本当の平和であって、なれ合いでごまかすような関係であってはならないということが言えると思います。「そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」ということです。何かをはっきりさせることの必要性ということを言っていると思います。ただ単に争いがないという平和ではなくて、本当に大切なものを大切にするからこそ、時には分裂がおこるということも、確かにあるかもしれません。
わたし自身はどちらかと言うと綺麗好きな人間で、割と部屋を綺麗にしていたり、片付けが体質的に好きではあります。多くの方がご存知でしょうが、片づけ方の本があって、その著者は片付けのカリスマみたいな人で、テレビに出たり、ネットにもたくさん出てきます。彼女の考え方がなかなかそうだなと思うことがあります。片付けは物の話ですが、物を大切にするということは一体どういうことなのか。もったいないからといって、なんでもかんでもとっておくということは、結局は大切にすることではないということです。つまりとっておいても一生涯、箱から出さないまま、そのまま眠らせている物をたくさん持っているということは、その物を生かしていないということ。物をただ単に置いているというだけで、死んだまま抱えているわけで、本当に物を大切にすることではない。物を大切にするということは、本来の価値を自分の生活の中で生かすことだという。生かしていないものは、持っている必要性がないから、感謝の心で片付けるという。つまり一つ一つの物と向き合う。それが本当に必要かどうか、彼女の言葉で言うと、ときめくかどうか。ときめかないものを持っているということは、結局物に対して失礼だということでそれを手放す。それで片付けるということの大切さを言っています。すると自分が持っている物の半分以上は必要ではないという。それは手放した方が良いものを持っているだけだということです。物質文明社会の中で、物が溢れている生活をしている人にとっては、何を本当に大切にするかということは、確かに問いかけてみる必要性があるのではないかと思います。今日の福音書もそういう事を言っているように思います。なんでもかんでも持っていたらいいというのではなくて、一つ一つと向き合って、必要なものはとり入れて、必要でないものは手放すことです。彼女が言うのは物の関係性だけですが、わたしたちは物だけの問題ではないです。一番大事なのは 平和をつくるのはやはり自分からだといつも思うことですが、自分自身の心の中を片付けていることができるかどうかです。あるいは自分の生活そのものの中で、自分を活かしていないものをいっぱい持っていたとしたら。例えば時間の無駄づかいとか、あるいは心の中に、どうでもいい憎しみとかわがままとか、そういうものをいっぱい抱えて生きていくのは、本当に自分自身の中に生き生きとした、あるいは平和を築いているということにはならないのではないかということです。わたしたちは本当に平和をいきいきとした生活をしようと思ったら、物の片付けももちろん大事ですが、心の片付けです。あるいは自分自身の生活の中の関わり方。あるいは時間の使い方。一つ一つにちゃんと向き合って、大切かどうかを識別して、いらなくなったものを手放さなければない。典型的なのは自分の心の中のわがままであったり、自堕落な生き方に流されているような心。あるいは何かに執着をして捕われているような生き方。そういうものはいらないものはいらないとはっきり仕分けをしなければ、本当の意味での心の平和は訪れないでしょう。部屋が綺麗なだけではなく、自分の心を綺麗にしないと意味がないでしょうし、 わたしたちの使っている時間や関わり方の中で、いらないものがいっぱいあるような、そのような時間の使い方をしていること自体が平和をもたらしていないということが事実でしょう。 なんとなくダラダラと生きていけばいいというのはあり得ないということです。わたしたちが神様の心を大事にして生きようとするならばということです。彼女が言うには、なぜ片付けられないのか。その理由は二つだけだと言うんです。過去に捕われているか、未来に対する不安があるか。過去に対する捕われ、思い出とかを、あれもこれもとっといてしまうか、将来、来るかどうか分からない不安のために、使うかもしれないからとっておこうとか、結局は過去と未来に縛られることを片付かないと言います。つまり自分に統一性がとれない。わたしたちの生き方は、今を大切にするということですから、過去を整理しなければならない。過去の自分の色々な 記憶を過去から自由にならなければならないでしょう。そしてまた未来に対する不安を置かなければならない。今をしっかり生きるというのが出来ないわけです。将来の心配ばかりしたり、過去の嫌な出来事を思い出して、過去の失敗に捕われたり、しばしばします。わたしたちは何でもかんでも平和というわけではありません。やはりそこで整理やいらないものを片付けて、本当に大切なものを大切にしていくという選択の中でこそ、自分自身の生活にわたしたち自身の人間関係の中に、本当の平和を得ることができるでしょう。本当にいきいきとした平和を生きるのではないかと思います。そのようなことをわたしたちは考えましょう。時々は自分の生活、自分の心のあり方を見直して、整理をして、いらないものは神様に委ねて、憎しみとか怒りとか、悲しみとか不安とか、そういう元になっているものから整理をして、喜びや平和や節制、霊の実りをもたらす物こそ大切にしていく。そのようなけじめのある、片付けのある自分自身。そのような人生を送るならば、どれほどわたしたちは本当の意味で幸せな人生を送れるかということです。仕分けなしに片付けなしに いることはあまりにももったいないことです。本当に大事なものを選択して、どうでもいいものを手放す。ごく単純なことです。それをわたしたちの生活の中で実践していけるように、この一週間が本当の意味で平和と喜びのうちに歩めるような、そういうものを選択していくことができるように、共にこのミサで祈りをささげたいと思います+

 

第一朗読  エレミヤ書 38:4-6、8-10
(その日、役人たちはエレミアについて)王に言った。
「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」
ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。
エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 12:1-4
(皆さん、わたしたちは、)このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません+

 

2019 年 8 月 18 日(日)7:00
  年間 第 20 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記