カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2019-08-25 目に見えない狭い戸口

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

             youtu.be

ルカによる福音書 13:22-30 (そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」+

 今日の福音書でイエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい。」とおっしゃいます。この「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と質問する人がいて、そしてイエス様が「狭い戸口から入るように」と比喩的に述べられています。狭い戸口というのは何なのかということです。日本の家で考えたら、狭い戸口があれば、広い戸口もあるということです。狭い戸口と広い戸口はどういうことか、何をおっしゃっているのかということです。今の時代はマンションとかに住んでいる方が多く、一軒家の方が少ないかもしれない。マンションとかにはこういう戸口はないんですが、一昔前の大きめのお家にはそうだったんですが、玄関ともう一つ勝手口がありました。正面から入る大きな玄関があり、狭い戸口というのは勝手口ということです。勝手口というのは台所に通じているところで、イエス様がおっしゃる狭い戸口というのは、そっちの入り口のことをおっしゃっているんだろうと思われます。
勝手口というと、わたしは神戸出身なんですが、 わたしの子供の頃ぐらいまでは、まだ勝手口のある大きな家というのはあって、何を思い出すかというと、わたしの実家の職業は今はないですが、駅前のお米屋さんでした。 父親がお米を大きなお家に配達するのは狭い戸口からでした。玄関から持っていったら失礼で、勝手口にお米を配達しなければならないということでした。時折父親の体調が悪い時には、わたしが代わりに働いていた時期もあって、父親の大きな病気で何ヶ月も働けなかった時に、一時は大学を休学して、わたしが代わりに働いていた時期がありました。慣れていなくて、間違えて玄関から入ったら怒られたことがあります。お米屋さんは勝手口から入らないと駄目だということです。狭い戸口から入るということは、表玄関ではなくて、裏の勝手口から入るようにとイエス様がおっしゃっています。表の玄関と、裏の狭い戸口のどちらが大事かといったら、明らかに勝手口の方が大事なんです。なぜかといったらその当時ですが、お米屋さんとか酒屋さんが配達するのは、全部勝手口でした。そこから全部運び込まれるわけですし、職人さんも勝手口から入ります。生活を成り立たせているものは、全部勝手口から入ってきて、表玄関というのは家のご主人様が出入りしたり、お客さんが来たら立派な玄関から入ります。でも日常生活のわたしたちが生きていくのに大切なものは、全部勝手口から入るようにできています。勝手口から入るとすぐ台所です。イエス様は比喩でおっしゃっているわけですが、わたしたちが本当に大切にしなければならないのは、勝手口だということです。 勝手口こそ、そこから入るということですから、わたしたちはそれを生活に当てはめると、勝手口の方が重要なのは明らかだということです。そこからわたしたちは命をつなぐものがある。立派な家の見える所になくて、裏の所にひっそりあるのが勝手口です。でもそこから家の一番大事な物が全部運び込まれてくるところが、狭い戸口にあてはまるわけです。そのような狭い戸口を物理的だけではなくて、 わたしたちの生活の中で、そのような戸口を大切にして、わたしたちは生きれるかどうかということを、イエス様が説いていると思います。 玄関から入るのはどっちでもいいとおっしゃっていて、むしろ勝手口を通るようなものを、わたしたちの一番魂の救いも含んで、そっちの方に本当のわたしたちの命をつなぐ入り口があるということです。      子供の頃ですが、親戚の中で一族の長のような人がいました。今はそういうのはないかもしれないけれども、わたしが子供の頃は親戚を束ねる一族のボスみたいな人がいました。神戸ですから芦屋に住んでいました。まさしくこの勝手口があるような家に、一族のボスのようなおじさんおばさんが住んでいました。お正月とかになったら一族が集まって、年始の挨拶やパーティーなどして、子供の頃はその家に夏休みにお泊まりのような感じで、子供だけでその家で過ごしたりすることはありました。それでご飯を食べたり、お兄ちゃんお姉ちゃんと遊んでもらったりしました。その時のことを思い出しても、思い出に出てくるのは勝手口の方です。というのは玄関の方より勝手口の方で遊んだり、おやつをもらったりしていました。勝手口の方は子供にとっても重要な所だというのが今から思っても心の中に刻まれています。本当に大事なのは裏口と言えるかもしれない。わたしたちの日常生活も、公的な生活が表口で生きているわけですけれども、 わたしたちを本当に養って大切にしているものは、やはり表に出ない、あっても見えない勝手口のような所で、わたしたちの本当に大切なつながりがあるということです。それは表に出ないし、それは謙遜なものであって、でも最も重要なものが勝手口にあるということです。イエス様の暗示的なものですけれども、目には見えないけれど、目立たないけれども、本当に大事なつながりのある生き方のポイントだろうと思います。それを大事にしてこそ、クリスチャンとしての日々の生活、 永遠の命につながるものは、一番大事なものは勝手口から来るものこそが、わたしたちに来ているということを、はっきりと聖書に書いています。だから裏口を閉められたらだめなんです。表口が開いていようがいまいが、わたしたちの生活に目に見えないけれども 、謙遜で命につながりのあるような、そういう関わりやつながり。それをわたしたちも信仰生活においても、そういうところを大切にすることによって、わたしたちの本当の永遠の命につながる生き方があると思います。ほとんどの方には勝手口というものが存在しない家に住んでおられる方が多いでしょうけれども、でもわたしたちの生活そのものに、公の人との関わり。そういう関わりよりも目に見えない、あるいは日常の謙遜な、つながりがあるようなところにこそ、永遠の命につながる大切な道がある。それをおろそかにすることが最も危ないことだということを、今日の福音書はいっていると思います。わたしたちが謙遜な中で、目立たないけれども、一番重要なつながりや関わり、それを大切にして歩んでいけることができるように。今日は象徴的なたとえですから、それを自分の生活に当てはめて、謙遜の中で、本当に命につながる関わりやつながり。それは自分の生活の中では何なのかとしっかり意識して、つながりこそを大切にして生きていくことができるように、この一週間、そのようなことを大切に生きれるように、共に祈りをささげたいと思います+

 

2019年 8 月 24 日(土)18:00
 年間 第 21 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記