カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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1-19 生き方でイエス様を証しする

英神父 ミサ説教 イグナチ教会 於

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ヨハネによる福音書 1:29-34 (そのとき、)ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」 

 今日の福音書はヨハネによる福音書の最初の方のところです。洗礼者ヨハネがイエス様のことを周りにいた弟子たちに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエス様を証ししたといえるし、信仰告白をしたともいえるでしょうし、イエス様のことを人々に紹介したともいえるでしょう。イエス様の事を「神の小羊だ」といって紹介したわけです。非常に印象的なところだと思います。みなさんも考えてもらったらいいと思いますが、みなさんはイエス・キリストという人をどういう方として紹介するかということです。時々言うことですが、周りの人にイエス・キリストを宣べ伝えましょうということを勧めていますが、その場合にイエス・キリストをどういう人としてみなさんは紹介するかということなんです。自分の家族や友人に特に信者でない人にイエス・キリストのことを何というふうにしてみなさんだったら説明するかということです。この中でも洗礼を受ける準備をされてる方や洗礼を受けたての方もおられるでしょうが、洗礼を受けたばかりの方とお話していても、なかなかイエス・キリストとはどういう人かということは表現できないような方が多いのですが、洗礼を受けてしばらくたって、ベテランになってくる人は、ある程度自分にとってイエス・キリストはどういう方かということをだんだんと喋れるようになる、語れるようになるということです。イエス様をどういう方として自分は受け入れて、どういう方として信じているのかということをよく考えてみたら、振り返ってみたらいいのではないかと思います。それは単に口で紹介するだけの問題ではない。言葉で紹介するだけではなくて、イエス・キリストは誰であるかということを紹介する時に、結局は自分がクリスチャンとしてどう生きていくかということをよくよく考える事と切り離せないかと思います。単純化していうならば、たとえばアッシジのフランシスコはイエス・キリストをどんな人として紹介しているかというと、やはり貧しく生きたイエス様です。でも紹介しているフランシスコは実際に貧しく生きたわけです。自分の生き方を通してイエス様が誰かを紹介していると言えるでしょう。例えばフランシスコ・ザビエルは日本まで来てイエズス会の初期メンバーですが、やはり明らかにフランシスコ・ザビエルだったらイエス様のことを福音を伝える人と語っているでしょう。フランシスコ・ザビエル自身が福音を伝える者だったからです。イエス様を証しするということは、誰であるか語るだけではなくて、自分がイエス様をどう生きているかということと繋がっているということです。たとえばマザー・テレサだったら イエス様のことを貧しい人に仕えた、貧しい人を大切にしたイエス様だと紹介するでしょうし、それはまさしくマザー・テレサがそのように生きたわけです。イエス様を紹介する、イエス様を証しするということはそのイエス様にわたしたちが倣って生きていくという事と一緒だということです。だから自分の生き方全体を通して、イエス様が誰であるのか、そしてどういうイエス様に自分が従って、どういうイエス様を人々に表わしているのかということをやはり振り返らなければならない。だから多分洗礼を受けたての人はそれを話せないでしょう。まだクリスチャンとして歩みが短いからです。でも2、3年5年10年、クリスチャンであるとしたらそれはイエス様とどう生きているかということがみなさんの中で蓄積されていく。それが本当の証しだと言えるでしょう。
今日の洗礼者ヨハネの紹介はイエス様の事を「神の子羊だ」というんです。ここで神の子羊だという以上、生け贄として捧げられる子羊のことです。しかも「世の罪を取り除く」と書いてあるから、その子羊として生け贄としてのイエス様を洗礼者ヨハネは紹介しています。それもちょっと驚かされます。それはよく聞く言葉ですけれども、聖体拝領の前によく唱える言葉で、でもそのイエス様を洗礼者ヨハネは紹介しているわけです。多分だからでしょう。結局は洗礼者ヨハネの生涯も命をささげる生き方だったわけです。ヘロデ王に逮捕されて結局は殺されています。彼自身の生き方そのものが生け贄の生き方だったでしょう。全く甘いところはない厳しい人でしたけれども、生き方も死に方も厳しい。でもその死に方が生け贄という言葉でそのまま表わされるといえることです。胸に迫ってくる言葉であると言えるでしょう。皆さん自身は生け贄として生きたい方がおられるとしたら、イエス様を神の子羊として紹介されてもいいのではないかと思います。イエス様の生涯の一番大事なところは、十字架上で自分の命を生け贄として世の罪を取り除く、まさしく子羊として命をささげたという、それなしにメシアとしてのイエス様の指名は果たせなかったわけです。この洗礼者ヨハネの紹介の重さというか、それを受け止めなければならない。そしてわたしたちが生け贄というと言葉が強いですけれども、やはりどこかで自分を捧げなければならないでしょう。何らかの形で痛みを伴った形でささげなければならないでしょう。仕事において、家庭の役割において、病気や自分自身の苦しみを、自分自身も生け贄としてささげなければならない時がないとは言えないでしょう。その時にこそ皆さんは神の子羊としてのイエス様を証しているということです。紹介しているということです。言葉ではなくて行い、皆さんの存在を通して。それは最も貴重なことの一つではないかと思います。わたしたちクリスチャンとしての生き方としてですけれども、そのようなことも少し振り返ってみましょう。もちろんその生け贄をいただいて、イエス様の生け贄を頂いて罪の赦しをいただいているわけです。でもわたしたち一人一人も何らかの形で生け贄として生きるように呼ばれているのではないかと思います。ただ一人一人は違いますが、同じ生け贄とかささげとか、自分をささげるという言葉を使ったとしてもそこにイエス様との深い絆というか、イエス様を本当の意味で証して行く、クリスチャンとしての最高の生き方が表れていると言えるのではないかと思います。自分にとってのイエス様がいったい誰なのか。イエス様の何に自分が倣っていくのか。どういうイエス様を証ししたいのか、実際しているのか、できるのかできないのか。それを問いましょう。そしてわたしたち一人ひとりが自分なりの形でイエス様を証しすることができるならば、イエス様の福音はイエス様のメッセージは、周りの人々に伝わっていくのではないかと思います。
わたしたち一人ひとりがそのようなイエス様との深いつながりの中で自分自身を生きていくことができるように、クリスチャンとしての生き方を表していくことができるように、恵みと祈りをささげたいと思います +

第一朗読  イザヤ書 49:3、5-6
(主は)わたしに言われたあなたはわたしの僕、イスラエルあなたによってわたしの輝きは現れる、と。
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 1:1-3
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように+

 

2020 年 1 月 18 日(土)18:00 
 年間第2主日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記