カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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7-5 イエス様のもとで 安らぎを得る約束

英神父 ミサ説教 洗礼式

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マタイによる福音書 11∶25 - 30 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

  本来ならば4月に洗礼式を行うところが、7月になってしまって皆さんも待ちくたびれたような感じかもしれません。長い長い信仰生活のスタートとして数ヶ月遅れるぐらいは大した間違いはないのではないかと思います。ただ皆さんの洗礼はコロナウイルスの一つの困難の中での洗礼ということで意義深いというか、特別なお恵みが逆にあるのではないかと強く思います。 今日の福音書はマタイの11章、有名で慰め深いところが朗読されました。これはみなさんの洗礼と改宗のスタートの御言葉として受け取ってくださったらいいのではないかと思います。イエス様が神様をほめたたえるのです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」イエス様が神様を賛美するのですが、でも賛美する内容が面白いのです。何か仕事が成功したとか、何かがうまくいったとかで、その度に神を賛美するのではなくて、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」ということをイエス様が賛美しているという不思議なところではあります。神様にとって最も大切なことというのは、知恵ある者や賢い者、学問や研究を通して見えて来るものではなくて、幼子のような心になった時に初めて神様が一番大切にされていることが明らかになってくる。だからイエス様が賛美されているということです。 実際コロナウイルスのことを人間の知恵とか科学の発達とかで分かることもありますが、いかに人間が小さいものか、日頃は威張ってなんでもできるような気持ちになってしまって、世界を支配しているような気持ちになっているところもあったかもしれません。でも実際はウイルスで、こんなにあたふたとせざるを得ないわたしたちは小さな存在だということを突きつけられている時であると言えるかもしれません。 神様の一番大事なことは、幼子のようなものに示される。だから皆さんが洗礼を受けられるということは幼子のようなものになる、それは普通の言葉で言うと洗礼を受けて神の子になる。でもそれは本当に幼子のようになって神の恵みの中に生きていく。それを出発点となると言えるでしょう。この幼子のような心で出発する。普通に言えば謙遜さですが、その心を大切にして出発してくださったらいいと思います。 そしてイエス様がおっしゃるんです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」このコロナの期間、あるいは重荷を負ってる。あるいは苦労とか心労とか、様々な心配が心の中からおこってくることがあると思います。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」イエス様がおっしゃいます。そしてわたしたちは洗礼を受けることによって、疲れたり苦しかったり重荷を負っている時は、イエス様のもとに行くことができる。そのやすらぎどころが確保されている存在になったということです。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と約束されているわけです。 わたしが思うに、神様なしに、どうやって苦しみとか重荷をわたしたちは背負って生きていけるかということです。イエス様のところに行ったら重荷を降ろして安らげられるとイエス様がおっしゃっています。では神様がない人は、苦しみや困難をどうするかといったら、生涯自分で担うしかないということです。あるいはそこから逃げて逃避したり、結局は自分で苦しみを担うしかないんだですが、でもクリスチャンの最大のメリットというかお恵みは、やすらぎどころが与えられている。神様のもとに行けば安らぎを与えられていると、主が約束されているということです。これは本当に大きなお恵みだと思います。今苦しむことがあってもなくても。何かあった時には、イエス様のもとに行って、安らぐことができる場所が確保されている生き方ということです。わたしが洗礼を受けてから、やはり安心感があると言うか、結局神様に守られている支えられている。少々困難なことがあっても自分だけで頑張らなくてもいいと言うか、それは本当に大きな支えなのではないかと思います。今はなかなかミサに行くのは難しい状況ですけれども、でも聖堂は開いていますから、お祈りに来たり。この前も話したんですが、教会に来るだけでホッとするというか、ミサに出たりしばらく聖堂で座ってお祈りしていただけで混乱した心が静まって、安らぎの気持ちが与えられるということは度々みなさんも経験されていることだと思います。「休ませてあげようという」のは空約束ではなくてその通りなんです。神のもとでわたしたちは安らぎと休憩を得て、また出発することができるということです。「休ませてあげよう」有名なドイツのルターのドイツ語訳では、「元気づけてあげよう」なんです。休んだ後に元気が出てくるということです。それでわたしたちは歩んでいくことができる。そしてイエス様がおっしゃるんです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」軛というのは牛の首につけて畑を耕すものだといわれています。イエス様の軛を負って、つまりイエス様と共に歩むならば、その軛は負いやすく、イエス様の荷は軽い。だからイエス様と共に歩くので、苦しみは半分ぐらいになってしまうというか、完全になくなるわけではないけれども、でもわたしたちはイエス様と共に苦しみを担ってイエス様と共に乗り越えていくので、心は安らぎと平和のうちに歩むことができるということです。時々は疲れたり、しばしば困難がこれからも来るかもしれないけれども、全くずっと平穏無事というわけではないですけれども、それでも困難が来てもイエス様と共に担ってイエス様と共に乗り越えていく。その為にはイエス様から学びながら教えてもらいながら、そのような生き方を皆さん生涯これからしてくださったらいいのではないかと思います。 改宗される方は常にそうだったでしょうけれど、さらにこのカトリック教会の中でイエス様と共に道を歩んでくださったらいいのではないかと思います。 クリスチャンの道は安らぎと平安の道です。苦労がないわけではないですけれども、苦労を乗り越えていける、あるいは少々何かあっても、そんなに振り回されなくて済む、そのような道がわたしたちに与えられている。柔和で謙遜なイエス様に従って、わたしたちも謙遜で柔和な心で歩んでいけるように、特ににこれから洗礼を受けられる方々に恵みが与えられるように、共に祈りを捧げましょう十

 

第一朗読ゼカリヤ9・9-10
見よ、あなたの王が来る。彼は高ぶることがない。

ゼカリヤの預言
主は言われる。9・9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。10わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。

答唱詩編詩編145・8+9、10+11、13ab+14
いのちあるすべてのものに、主は食物を恵まれる。
145・8あなたは恵みとあわれみに満ち、
怒るにおそく、いつくしみ深い。
9その恵みはすべてのものに及び、
いつくしみは造られたものの上にある。

10神よ、造られたすべてのものはあなたをたたえ、
あなたに従う人は感謝して歌う。
11彼らはあなたの国の栄光を語り、
力あるあなたのわざを告げる。

13abあなたの国は永遠の国。
あなたの支配は世々に及ぶ。
14神は悩みのうちにある者を支え、
倒れる者をすべて立たせてくださる。

第二朗読ローマ8・9、11-13
霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きる。

使徒パウロのローマの教会への手紙
皆さん、8・9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます十

 

 

2020年 7 月 2日(日)
 洗礼式〈白〉A 年 
  カトリック麹町教会於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記