カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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8-23 あなたはメシア 生ける神の子です

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マタイによる福音書 16:13-20 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた十

 今日の福音書はマタイの16章ですね。この箇所はマタイの福音書の前半と後半を分ける非常に大切な所になっています。このイエスは自分のことを何者だというのかっていうわけですよね。わたしは一体誰かということをたずねるわけです。弟子たちに自分は一体誰なのか、非常に不思議な問いかけというか、普通はこういう問いかけはあんまりしないんですよね。ある意味当たり前なので、この人は誰でしょうと、時々テレビでそういうことを見たりしますが、だいたいカーテンの向こう側に隠れていて、ヒントを言って、結局、顔を出してこの人でしたみたいな。大体それで終わるわけですけれど。でもイエス様は弟子たちとすでに2、3年付き合っていて、名前も顔も分かっている。でもあえてわたしは一体誰なのかと弟子たちに聞く、不思議な問いかけだと思いますね。

何でこうやって弟子達に私は誰なのかって聞くのは、やっぱりイエス様が誰なのか隠されているっていうか、分からないままだからだとも言えるかもしれないですね。世界中で毎月一冊ぐらいはイエスが誰であるかっていう本が、永遠に出版され続けている。日本でも年に一冊ぐらいはそういう、イエスはこういう人だっていう本が、日本ですら翻訳されているような感じですけれども。イエス・キリストはいったい誰なのかっていう非常に根本的な問いが、昔も今も変わらずあるということではありますね。

今コロナの中で、ミサに参加するのも制限されているし、人によっては様々な活動も制限されていると思われますが、自分にとってイエスは誰なのかということを、ちょっと真剣に問いかけてみられてもいいんじゃないかと思います。たくさん聖書の中で書かれているし、あるいは本だって色々。こうやってミサに参加するのも、まさしく御聖体のイエス様をいただくわけですけれども、でも果たして皆さん一人一人は、イエスが誰か分かっているかというか、少なくとも自分にとってイエスは一体誰であるかっていうことを、はっきりと言えるかどうかということですね。でもそれはキリスト教の信仰の革新にかかっている、大きな問いだと思いますね。あるいはみなさんの信者でない家族とか、友達とかにイエスは一体誰かって聞かれて、どう答えるのかっていう、そういう問題でもあるかもしれないですけれども。何か根本的なことじゃないかと思えます。

もうちょっと噛み砕いて言ったら、どういうイエス様に一番親しみがあるっていうか、繋がりを感じるかという、具体的な問いとして考えてみたらいいかもしれないですけど。イエス様も様々ですから、非常にファリサイ派をやっつける力強いところもあれば、病人や罪人に非常に優しいところもありますし、叱りつけて湖を黙らせるような力もあるかと思えば、ゲッセマネの園で血の汗を流しながら、苦しんでいる姿もありますし、ここでペトロがメシアだと、生ける神の子だと答えて、ある意味正しい答えなわけですけれども、でもここでペトロがイエスのことが分かっていたかって言ったら、これははっきりしていて全く分かっていなかった。福音書の半分まで来ていて、実は全く分かっていなかったんですね。ここからメシアだと宣言したとこから何が始まるかって言ったら、イエス様が十字架に向かっていく道が始まって、結局メシアであるイエスは十字架にかかるんですけれど、ペトロはまったく予想していなかった。弟子たちみんなですけれども、全く予想していなかったんですね。だからメシアだと答えているペトロが何も分かっていなかった。ほとんど0%ですね、イエスについて分かっていたことは。この時点では。でもそれで終わりかと言ったらそれで終わりじゃなくて、ここの特徴ですよね。復活したイエス様に出会うという、これも全く想像していなかった。想像を超えていたイエス様に出会うわけですけれども。毎日毎日、顔を見ていたペトロですら、イエスが本当に誰なのか、全く分かっていなかったわけですから、わたしたちにとってイエス様は、救い主であると言えるのかどうなのか。あるいは十字架にかかるイエス様って、わたしにとって誰なのか。そして復活したイエス様って、いったい私と何の関係があるのかということなんですよね。それは問いかけてみてもいいことじゃないかと思います。それはペトロだっということにも繋がっていて、つまり自分が誰なのかっていう問いが、この後には必ずついてくるんです。イエスが誰かっていうことが分かるってことは、ほぼ同時に自分が一体誰なのかということと、深く深く結びついている問いなんです。自分は自分だと当たり前に思いますけれども、でも人によりますけれども、結婚してパートナーと暮らし始めて、全然違う自分を発見するというのは、よくあることです。あるいは年をとってきて衰えてきて、また全然違う自分に向き合わなければならないということもありますから、イエスと向き合うことによって、どういう自分なのかということを受け止めなければならないという、これも大きな大きな問いがあるということです。この場合はなんでシモン・ペトロと 名付けたのかという、大いなる謎があるんですけれども、ペトロというのは岩という意味ですよね。ペトラというギリシャ語の岩の男性形に変えたペトルスなんですけれども、どう見たって岩のような人間ではなかったわけで、いつもわたしはこんにゃくペトロと呼んでいて、ぐねぐねの弱い男性の典型です。ちょっと何かあるとグラグラときて、誘惑に負けたり、人の圧迫で自分の意見を変えたり、全然岩ではないんですよ。ペトロはどこから見ても。裏表があるタイプではないけれども、裏で謀略を巡らすという陰険なタイプではない、単純なタイプだけれども、でも弱さ丸出しです、どこをとっても。でもそんなペトロに何で岩と名付けたのか。ペトロの中にやはり岩のようなところがあるとイエス様が 、そして岩の上に教会を建てるということを使命として与えられたわけですから、これも大したものと思います。二つの問いですが、イエスが誰かという問いと、そこからすぐ直接自分は誰なのか、あるいは自分は何をすべきなのかということと、全部繋がっている、クリスチャンとしてということです。

例えばマザーテレサ。彼女のイエス様はどちらかというと十字架のイエス様です。十字架上でわたしは乾くという言葉をおっしゃったイエス様が、一番マザー・テレサのイエス様だと思います。そのイエス様を貧しい人の中でも最も貧しい人に見い出したわけです。だから貧しい人の中でも一番貧しい人に彼女は生涯仕えたわけです。マザーテレサは貧しい人に仕えていたのではなくて、貧しい人の中におられるイエス様に仕えておられたわけです。 

皆さんがクリスチャンとして生きていくときに、イエスが誰であって、そのイエスに従っていく自分は誰なのかということを問いかけてみたらいいのではないかと思います。その中で皆さん一人一人クリスチャンとしての歩みが出てくると思います。ミサに参加するだけではなしに、日常の皆さんの生活の中で、クリスチャンとしての生き方があらわれてくるのではないかと思います。

ついでに言うと、私自身は洗礼を受けたのはだいぶ前ですけれども、どちらかと言うと十字架にかかった、弱々しくて全てを投げ出しているイエス様が、一番心に響きましたけれども、だんだんとあらためてここを読んで黙想していると、圧倒的な愛の存在をそれに触れると死んでしまうのではないかと思うぐらい、御公現のイエス様みたいな感じで、光り輝きすぎて直視できないみたいな気持ちがだんだん強いです。でもそれは司祭としての使命と深く繋がっていく感じは強い気がします。日々こうやって説教をしたり、色々皆さんのために働いたりしたりする使命に尽きています。でも何かそれはイエス様の姿なしには、成し遂げられないなという気持ちは非常に強くします 。

皆さん一人一人自分のイエス様と共に生きていく。自分が好きな自分が付き合っているイエス様をしっかり受け止めて、そしてイエス様とともに本当の自分らしく。ペトロが自分の弱さを乗り越えてリーダーとして生きなければならなかった。一人一人その姿あり方は全く違うでしょうけれども、皆さん一人一人が自分にとってのイエス様を見い出して、イエスとともに親密に生きながら、皆さんが一人一人与えられている使命や課題を、乗り越えなければならない、受け止めなければならない現実も多々あるでしょう。でもそれをイエス様とともになら受け止めて、乗り越えて、そこで愛を生きていける道が示されていると思います。

それを一人一人に見い出しながら、探しながらイエス様と皆さんが共に歩んでいけるように、このミサでお祈りを捧げたいと思います十 

第一朗読  イザヤ書 22:19-23
(主は、宮廷を支配しているシェブナに言われる。)わたしは、お前をその地位から追う。お前はその職務から退けられる。
その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は、父の家にとって栄光の座に着く。
 
第二朗読  ローマの信徒への手紙 11:33-36
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが 主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン十
 
 
 
2020年 8 月 23日(日)
 年間 第 21主日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記