カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210213 慰めのときには謙遜を 荒みのときには希望を

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ルカによる福音書 6:17、20-26
(そのとき、イエスは十二人)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、(来ていた。)
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」  

 今日の福音書はルカの6章にあたるところです。「平地の説教」と呼ばれる冒頭のところです。四つの貧しい人々と四つの富んでいる人々に対して、イエス様が普通とは逆の評価をされる非常に印象的なところになっています。
貧しい人々と富んでいる人々の違う立場についてお話しをしているようにももちろん受けとれるんですけれども。やはり一人の人間が貧しいときと富んでいるとき、あるいは泣いているとき笑っているとき。一人の人の人生の中にも変化があるというか、良い時と悪い時と、何かそれを語っているようにも受け取ることができるんではないかと思います。
そして調子の悪い時、泣いている時に私たちがどういう態度をとるのか。あるいは笑っている時にどういう態度をとるのかということを、しっかり見直す一つの福音のメッセージだと思うんです。
中国の諺に似ているんですけれど、「人間万事塞翁が馬」というお話しと合わせて考えてみたらどうかと思います。塞という国にいた翁というかおじいさん。その塞翁に非常には立派な馬がいたわけです。この馬が逃げて、周りの人が可哀想にと馬がいなくなって。でも本人はこれが幸運の種になるかもしれない、というわけです。実際その馬が帰ってきて、もっと素晴らしい馬も何頭も連れてきたという。みんなが喜んで周りの人が、こんなに良かった良かったという。でも塞翁はこれが不幸の種になるかもしれない、というわけです。案の定、息子が名馬に乗っている時に転んで怪我をして足の骨を折った。それでみんなは可哀想にと、せっかく馬が来たのにこんな不幸なことが。また塞翁が言うんです。これが何か幸運に繋がるかもしれないと言うんです。それで隣りの国と戦争になってしまって、若者がどんどん出ていって、その戦争に負けてしまって、ほとんど戦死してしまって、塞翁の息子だけが足を怪我をしていたから戦争に行けなくて、結局生き残ることができた。「人間万事塞翁が馬」という中国の有名な諺ですけれど、何が良いとか何が悪いとかをどう決められるのか。それは私たちがよく見なければならないことでしょう。
今年はイグナチオ年で霊操を見ているんですが、同じような事があって、霊的識別という、オンラインの霊操でみてもらったらいい、すごく有名な霊的識別の中の一つのポイントは、慰めと荒みをどう受けとるかということです。祈りがうまくいかない荒みの時があるわけです。でも神の恵みを感じる慰めのときもある。その荒みと慰めの時にどのような態度をとるのが霊操のもの凄い重要なところなので、それはこの説教で全部喋れない、講座とかでしか詳しく説明できないですが、極々簡単にいえばこうなんです。私たちの人生には慰めと荒みが繰り返されるということなんです。非常に単純なことですが、でも多くの人は荒みの時に神様に見捨てられたとかがっかりしてしまうけれども、慰めのときには神様感謝とか言っている。でも結局繰り返しを私たちはどう受け止めていくかということが信仰生活の一番大事なところなんです。荒みの時には貧しい人々は幸いである。何でかといったら、上手く行かないときにこそ神様の計らいを一生懸命考える。神様は何を自分に伝えようとしているのか。どういったところを反省して神の恵みがあるのか。よく振り返ったり黙想したりするわけです。神の国があなた方のところに来るんです。そうでもないと、うまくいっていたら何も考えないで過ごしてしまう。逆に霊操の中でいうんです。慰めのときにはどうするのか。慰めのときは謙虚になれというんです。つまりそれは神様の恵みで頂いているものなんだから、それで有頂天になって、こんなにいいものがあるからといって、自分の信仰がどうのこうの。それは神様からたまたまいただいているものだから謙遜になれというんです。謙遜にならなかったら、満腹している時にその事自身が不幸になってしまう。そしてイグナチオがいうんです。慰めのときは謙遜になって、ついで次の荒みに備えなさいと言う。次に上手く行かなくなった時にどうするかを、今からしっかり準備しておけと言うんです。だからこうなんです。「満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。」満腹していると次は飢えるんです。「笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」だけれどもそれは来るんです。でもそれをしっかり心を整えて神様と一緒に次の困難をどれだけちゃんと準備を備えて上手くいくからといって有頂天になって、鼻が三センチも四センチも伸ばして自分は立派だと言っていたらポンと折っちゃうんです。その時こそ謙遜になって備えて、困難の時に自分がどのようにしようかとしっかり準備しておけと霊操の中に450年前に書いてあるんです。それを私たちがしっかりと受け止めるだけで、私たちはもっと振り回されない信仰生活が歩めるということなんです。荒みのとき、例えば飢えているとき泣いている時にはどうするかといったら、次の慰めが来るから前向きにいけというんです。今の捕らわれではなくて、次の慰めに向かって希望を持ってしっかり歩んでいけというんです。そうならば飢えているけれど満たされるようになるでしょう。泣いているけれど笑えるようになる。その人間の主体性と積極性を持っていくならば、私たちは慰めであろうが荒みであろうが、私たちの信仰をいつも歩んでいけるしっかりとした道筋があるということなんです。私たちは神様から愛されて守られているわけですから、良かったとか悪かったとか、私たちは神様と共に謙遜の内に希望の内に、神様を見出しながら歩んでいけるということです。それを私たちは心がけていきましょう。結局は私たちの心の置き所の問題です。良いときも悪いときもありますが、神様にどう心を置いて、私たちは歩んでいけるかということです。
ご存知の方も多いでしょうけれど私は関西の方に移動になって向こうの方に行くんですが、二十年前ぐらいに釜ヶ崎で働いていて、その時のことを思い出したんですけれど、その時はホームレスの人や日雇いの人と関わっていて、野宿している人たちを助けて、生活保護とかを手伝っていて、今は直接的なことはやっていないんですけれど、その生活保護に入った同じ日に簡易宿泊所、通称ドヤという所が生活保護のアパートに当時は変わっていって、そこに野宿していた人が生活保護を受けて、割りと大きなビルで同じ簡宿の生活保護に入った人に保護をとった後のケアで訪問に行って、同じ日に二人の人の所に行ったんです。その時はシスターと一緒だったか、とにかく行って、一人目のところに行ったら、男性でずっと泣いているんです。昔は鳶で建築労働者で割りと位の高い仕事をしていて、自分は昔、鳶でがんばっていて、梅田の阪急は俺が建てたとか、でもこんなにも落ちぶれて、自分は何にも出来なくてと、せっかく生活保護とったのに涙ながらに俺の人生は駄目だと言っているわけです。まあまあと、慰めていたわけです。同じ建物の同じ三畳の小さな部屋で、もう一人の人の所に行ったら大喜びで「畳の上で寝れるんや」と言っているんです。全く同じ部屋で、小さな作り付けの冷蔵庫とテレビがあって「冷蔵庫もあるんやで」「テレビもあるんや」と言って目がキラキラ輝いていて、「おおきに、おおきに」と言ってもの凄く喜んでいるんです。二人共野宿上がりで、ほぼ同じ部屋に入って、一人はがっかりして、一人は大喜びで「ほんまにありがとう」と言っている。外枠は全く同じなのに客観的には両方とも野宿から生活保護になって全く同じ所に住んでいるのに、一人はものすごく悲しんでいて、もう一人は大喜びなんです。人間の受け取り方。どういう状況になってそれをどう受け取るかという。人間の心の置き方で、幸せ不幸せがガラッと全然違う、びっくりするくらい。それが同じ日の同じ建物の中の人に訪問した時だったから余計にそれが印象に残っているんです。
私たちはただ単に状況を受け止めるだけではなしに、神様の計らいを見ながら私たちは生きているわけです。良い時も悪い時も当然ありますけれど、そこに私たちはちゃんと神様の計らいと導きを見い出すならば、全然がっかりする必要性はなしということです。逆にぬか喜びすることもない。俺はこんなに偉いんやでと威張る必要は全くない。神の恵みの中で謙遜に私たちはいつでも幸せに歩んでいくことができるということです。
コロナが明けようがコロナ中だろうが、その時に合わせて私たちは神様と共に生きる恵みがあるということです。それを心に刻みましょう。だからイエス様がはっきり貧しい人は幸いであると。神の国はあなた方のものだという。その貧しい人の心の受け止め方で、神の国を受け取れるか受け取れないかが決まるわけです。わたしたちが神の前にしたらみんな貧しいんです。大したことないんです、実際の人間の差なんて。たまに天才的な藤井聡太みたいな人はいますが、みんな神の恵みなしには生きられない。それを認めて、神の恵みの中で私たちが改めて歩んでいけるように、神様に恵みを願いたいと思います+

 

第一朗読  エレミヤ書 17:5-8
主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく 人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:12、16-20
(皆さん、)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。