カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

20220123 貧しい人に福音を 捕らわれ人に開放を

 

       youtu.be

ルカによる福音書 1:1-4、4:14-21
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
(さて、) イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 今日の福音書はイエス様がナザレの会堂で説教をした。この説教はイエス様の就任説教と呼ばれるもので、自分の使命がどういうものであるかということを語られた箇所です。イザヤ書を預言して、貧しい人に福音を告げ知らせる。それが彼の使命であると。福音を告げ知らせるという単に言葉だけの問題ではなくて、捕らわれている人に解放を、圧迫されている人を自由にする、そういう福音の力。神の力のことを、それをイエス様が働くということを決意したわけです。それはイエス様がおっしゃる通り実現した。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とありますが、イエス様の使命は実現していくわけです。この貧しい人に福音が述べ伝えられているということが非常に大事な点だと思います。
みなさんご覧になった方がおられるかもしれませんが、ネットフリックスという有料動画サービスがあって世界的なんですが、ネットフリックスで世界中で一番たくさん観たドラマが「イカゲーム」というんですね。一番観られた世界中で。それで一番観られたということなんで私も観たいという気持ちになったんですけれど、ネットフリックスの契約しないと観られないと修道院で言っていたら、修道院のテレビ室にテレビがあるんですけれど、副院長がそこで観られると言って副院長が契約していたんですね。さすが修道院と思いました。それでテレビ室でイカゲームを観たんですが、簡単に言うと韓国の今流行っている映画はだいたい貧しい人の話しなんです。社会から脱落したような人で、「パラサイト」という映画が前あって貧しい人の話しなんですが、イカゲームというのも貧しい韓国で落ちこぼれて借金まみれになっているとか、そういう人々を集めてゲームをさせるというお話しなんです。ゲームというのは子供の時にやったゲームを何百人という大人がやるという。いわゆるそのゲームというのは負けた人が殺されていくという。日本でも流行ったデスゲームの流れのものなんですが、何百人が参加して、だるまさんが転んだとか、子供の時にやったゲームとかやりながら、負けた人がどんどん死んでいって、何百人のうちのたった一人だけが賞金をもらえる。賞金が35億円だったか。大きな金額をたった一人がもらえるという。誰が生き残るかということで 頭のいい人が生き残るのか、力の強い人が生き残るのか、お人好しが生き残るのか、単に運のいい人が生き残るのか。結局そういうお話しで、たった一人の人が賞金を得るという、そういう残酷で恐ろしい。それがなんで世界中で一番観られるのか。やはりこの世界が競争社会というか、貧しい人を集めても結局競争して、誰が勝つかということを競わなければならない。そういう現代の社会を描いている。そういう面があるという、何か心に痛い気持ちになったものなんですが。でも貧しい人に競争をとイエス様は言っていないんです。イエス様が貧しい人にこそ競争するわけではなくて貧しい人に福音を神様に福音を伝えるというイカゲームとは全く違う。イエス様の発想なんですね。私たちがイエス様が伝えようとした貧しい人に福音が伝えられる。あるいは捕らわれている人が開放されるというのは、この世界の競争ゲームとは全く違う、福音の原則というかそれに従って私たちが生きていくように主が呼びかけられているわけです。それはいったいどういうものなのか。
この二年間、コロナウイルスの感染拡大で、この出来事の中で世界中の神学者がいろんな本を書いたり、様々な意見を疫病とキリスト教の関係について何人もの方が意見を出しているんですけれど、その中で一番注目されているのは、ロドニー・スタークというんですけれど、この人の意見が一番注目を集めているんです。初代教会、ローマ帝国の中で、なんでキリスト教がどんどん栄えたのかということの分析をされているんですが、いろんな宗教があって段々と国強化でいろんな理由でキリスト教が流行っていくわけですけれど決定的だったのは、その神学者によると疫病が流行ったからだというんです。それで実はキリスト教が流行ったと分析されているんです。いろんな理由があるんですが、その本の中で書かれている一番大きなポイントは、その時疫病が流行ってペストとか流行って、今のように医学がないから人々が全滅していくわけです。どんどん死んでいくわけです。その時にローマ帝国キリスト教以外の人はどうするかといったらお医者さんを初めみんな逃げたというんです。単純にかからないように。特に有名なお医者さんほど逃げた。危ないのは分かってますから。どうなったかといったら貧しい人たちが見殺しになったわけです。お金持ちしか逃げれないですから。貧しい人達がどんどん死んでいったという状況があったわけです。今と昔は感染の医学の発達が違いますから。でもその中でクリスチャンは逃げなかった。逃げないどころか感染した人を助けたというんです。だから感染リスクがもちろんあるわけで、介護したり助けた人でクリスチャンで亡くなる人もいたわけですが、全体的にどうなったかといったらクリスチャンのほうが生き残った。助け合っていたから。異教徒の助け合わないで、お金持ちが逃げた人々の中ではむしろ死ぬ人が多かったという。疫病が起こるたびにクリスチャンが生き延びて助け合っていたから。それで異教徒の人が助け合わなかったので人口がどんどん減っていって、だから疫病が流行るたびにクリスチャンがどんどん増えた。逃げて増えるのではなくて、そこにとどまって助けたからこそ死ぬ人は少なくなった。だからどんどんキリスト教のネットワークが広がってその他の宗教が衰えていった。それがローマ帝国でキリスト教が広まった最大の要因であるという分析なんです。
あとはクリスチャンはあまり死を恐れなかったという事があるんです。やはり永遠の命のことを大事にしていたから、少々のことでは逃げない勇気のようなものもみんな持っていた。それも殉教するそういう世界で生きているから、クリスチャン達は。 この世の命に執着する気持ちもそれほどなかったことも関係していると言われています。結局、貧しい人に福音をということはそういうことでしょう。貧しい人々の中で競争して、たった一人が勝っても意味がない。でも貧しい人の中でクリスチャンだけが助け合ったので、そこに救いと福音が生まれて、多くの人々がキリスト教の素晴らしさに気づいて、全然福音宣教しなくてもとにかく、クリスチャンが一番生存率が高かったんです。それで増えていったという。その事を鑑みるとやはり私たちの、もちろん今と昔は比べられないですけれど、今も感染症が広まったらもちろん自粛しなければならないですけれども。でも単に自粛するということだけではないんです。危機の中でこそキリスト教は進化を発揮するということです。その時こそ愛の心、助け合いの精神がより強く働くので、却って多くの人を助けることに繋がるということです。
貧しい人に福音を告げる。それはイエス様だけがすればいいという話しではないですし、イエス様の特別な力が働くことだけではないわけです。みんなが貧しさや困難の中にあるからこそお互い助け合うことによって、目の見えない人々が本当に大事なものが見えるようになってくる。イエス様がこの聖書の言葉が今日実現した。というんですけれど、誰が実現するのか。私たち一人ひとりが実現する中で神様の救いの業が実現していくわけです。ただ座ってじっと待っている中で、神の言葉が勝手に実現するわけではない。私たちが貧しさや困難な中にあるからこそ、助け合ったり、思い合ったり、励まし合ったりする中で、聖書の御言葉が目に見える形で実現していくということです。
貧しい人の中でこそ助け合いが必要。競争ではなくて。イカゲームはある意味バカバカしいドラマではあるけれど、さっき言ったように現実を語っている。イカゲームの世界は何かクリスチャンがいない世界であると言えます。その映画の中に実はクリスチャンも入っているんです。ドラマの中にも参加者に入っているんです。それはちょっとキリスト教をネガティブな解釈をして入っているみたいな感じですけれど。

私たちには希望と力がいつも与えられていると思います。今も感染が厳しくなってきて教会も少し自粛します。でも私たち一人ひとりの心を自粛するわけではないと思います。貧しさの中でこそ助け合う。苦しむ中でこそ私たちは助け合う思いやりの中で、御言葉が貧しい人や苦しんでいる人を助けられるという、本当の救いがやはり成就していくと思います。
危機の中でこそ私たちの真価というか、クリスチャンとしての一番大事なところは問われると思います。それを心に刻みながら、また困難になってきましたけれども、コロナ禍の中で私たち一人ひとりがイエス様の言葉を生きていけるように、この中でこそわたしたちが救いの業を分かち合っていくことが出来るように、互いのために祈り合いたいと思います+

第一朗読  ネヘミヤ記 8:2-4a、5-6、8-10
(その日、)祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
(次いで、レビ人が)神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 12:12-30
(皆さん、)体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
《足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。》
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
《神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。》