カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-11-28 入門講座 20 病者の塗油

英神父 入門講座 20 病者の塗油

 今日は病者の塗油という秘跡がテーマです。いやしに対する秘跡で病者に対して油を塗る式です。 目的は簡単に言えばいやしをということになります。イエス様の働きの一つに病人をいやしたということがあります。それはどんな人が来てもいやしたということです。マルコ10章46節「 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、 『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」こちらはいやしの話です。「一行はエリコの町に着いた。」昔から繁栄していた町にイエス様は弟子たちと大勢の群衆とエリコを出て行こうとした時に、イエス様は非常に有名だったでしょうが多くの群衆がいて、盲人のバルティマイは人が移動していくところへ声を出した。しかもイエス様の事を聞いていたので大声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。なぜ叫んだのかというと目が見えないからです。目が見えていたらイエス様がどこにいるか分かりサッと行けたでしょうけれども、道端に座っていたということで物乞いをしていたんだと思います。大勢の群衆が歩いて行くのがわかったのでどこかにイエス様がいると思い大声で「私を憐れんでください」と叫んだ。 「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、 『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」からイエス様に声が届いたから「あの男を呼んで来なさい」と言われ呼んで来て「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と」自分の望みをはっきりと述べるわけです。するとイエス様が「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この言葉で「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」イエス様はバルティマイにいやしの恵みを与えた。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った。」いやしの恵みが彼に与えられるのはバルティマイの信仰の働きがあったわけです。すべていやしの信仰の働きが行われているわけではないですが、多くの箇所で信仰の働きが問われていることも多いです。あるいは「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と言って周りの人は黙らせようとしたけれども、大声で叫び続けたというがいわばバルティマイの信仰の行為がはっきりあらわれています。それに応えてイエス様がいやしの恵みを与えたという形であらわれています。いやしの恵みが先だからこそ信頼してイエス様にお願いできるということはあります。いやされる前に叫んだということの中に、バルティマイのイエス様への信仰があったと言えるし、いやされた後「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」というところ自身もバルティマイの信仰のあらわれ というか、いやされたものは信仰の道を歩む、従っていくということです。そこにバルティマイの信仰があらわれていると思います。イエス様のいやしの働きがあるところに信仰があるということが非常に大事だということで 、信仰があるからこそいやしの恵みがいかされると思います。 目が見えるということはどういうことなのか。身体的ないやしを語っているわけですが、また 目が見えるようになって イエス様の姿が見えるようになった。つまり信仰の目が開かれたことが一緒に語られています。だから目が見えるようになったからこそ道を進まれるイエス様に従うことができた。イエス様の後に従って行くという信仰の行為が生まれると言えると思います。だからいやしの業というのは複合的なものだと思います。肉体的な物理的な意味もあるし、霊的な信仰の目が開かれるいやしもあるし、それらを含めてわたしたちはそのお恵みを頂きながら信仰の内に歩んでいく。そのようにわたしたちは呼ばれているだろうと言えると思います。その前提はいやし主であるイエス様のお恵みがわたしたちに働いているということです。イエス様ご自身が聖書の中で何人もの人をいやしたという話が出てきますが、イエス様だけがいやしたわけではなくて、いやしの恵みは弟子たちにも与えられています。マルコ6章6「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。 また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。』 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」時期的には遡る形ですが、イエス様ご自身がエリコに行く前もそうですけれども村々をめぐり歩きながら二つのことをされました。一つは福音を述べられた。説教をしたということが一つと、二つ目は病人をいやしたという。その業をあちらこちらで行った。御言葉を、福音を語ることと、病人をいやすという二つをされました。 自分だけがしたのではなくて「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け」悪霊に対して打ち勝つ特別な恵みを十二人に与えたわけです。「杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」下着といっても普通の服です。上着というのは司祭服のアルバのように被るようなものです。そのようなことをおっしゃって、なぜなのか。神様の恵みを分かち合うということはなるべく人間的なものがない。シンプルなものの中でこそ神様が働くということなのかもしれません。そして10節以下で 受け入れる人がいれば「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。」そして「 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」悔い改めの宣教ということは福音を語る。イエス様と同じように説教をして、自分の生き方を変えるように悔い改めるような呼びかけを多くの人にしていたのです。そしてイエス様と同じく「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」特徴的なのが油を塗ってというところです。最初から病人をいやす時には油を塗る習慣があったということです。現代のように薬がなかったので、オリーブ油のようなものは薬用成分があったので、そういう意味もあったのではないかと思われます。油を塗ってイエス様からいただいた汚れた霊に対する権能の恵みもありますから、悪霊を追い出したり病人をいやしたりした。イエス様もそうですけれども十二人の弟子たちも明らかに病人をいやしていたのは事実だろうと思います。その後イエス様は受難にあわれ、復活されたあとも弟子たち以外の人々もいやしの業を行っていたのであろうと思われます。 それはどこに書かれているかというとヤコブの手紙5章13節「 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」ヤコブの手紙のヤコブは誰なのかといったら、十二人の弟子の中のヤコブではありません。ヤコブは三人います。十二人の弟子の中に二人いて、ゼベダイの子ヤコブとアルファイの子ヤコブ、ごくありふれた名前だったんでしょう。 これを書いた人は誰かといったら、イエス の兄弟ヤコブ、イエス様の従兄にあたるといわれている。十二人の弟子ではなく十二人の弟子に続く人。義人ヤコブというんですが エルサレムの教会のリーダーだったと言われています。十二人の弟子たちはどちらかというとあちらこちらに派遣されて周るように思われます。 だからエルサレムの教会のリーダーが書いている手紙なのでエルサレム教会で実践されていることが、たぶん書いてあるんだろうと言われています。13節「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、」病気で家から出られない寝たきりになっているような病人のことだと思います。 ご聖体を保存するようになった一つの理由は病気でミサに来られない人に御聖体を運んで行くというところもありました。「病気の人は、教会の長老を招いて、」教会のリーダーですね。長老は今の司祭にあたります。まさしく 教会のリーダー のような役職のある人を家に招いて「主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」まさしく十二人の弟子がしたようにオリーブオイルを塗っていやしの祈りをしたというのが初代教会の習慣であったのは間違いないです。イエス様が病人をいやして、十二人の弟子も病人をいやして、次の代の人々も初代教会でのリーダーが病人の所に行って油を塗っていやしの祈りをした。 「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」ということでこれなんです。バルティマイがイエス様にお願いしたように、そのような信仰の祈りによっていやしの恵みが与えられた。 ここではいやしとは書いていないんですが、病人を救うというもっと広い意味かもしれませんが、「主がその人を起き上がらせてくださいます。」ということなので、信仰の祈りと油を塗るということで、神様のいやしの力が働くことがある。「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」「主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」ということでこの時代もそうですけれども、病気というのは罪との関連があると考えられていたんです。だから悔い改めて赦しをいただくということは、いやしと深い繋がりがあったということです。今のうちに言っておきますが、病者の塗油というのは赦しの秘跡を一緒にやった方がいいと言われています。 つまり罪の告白と悔い改めです。 それがあった方がいいとは言われています。そのようなことが初代教会で長い間実践されていたのであろうと思われます。油を塗るというのは聖霊の働きと合わさって、薬用成分もあったのではなかろうかと思われます。初代教会ではこういうことをやっていたんです。でも中世に入って教会が段々と組織的になってきたら、いやしの祈りをする習慣が変わっていきます。何になったかというと終油の秘跡に変わりました。ちゃんとできてきてからのは中世ですが、終わりの油と書くんです。亡くなる直前に神父様から油を塗ってやってもらう式に変わってしまった。なぜ変わったかは詳しくは調べていないんですけれども、中世の教会の考えは文化ですけれども、 罪に捕われていたんです。罪を犯さないようにするとか、罪からどう赦されるかが信者さんの最重要関心事だったんです。今は案外無くなりましたが当時はありました。しかも天国に入るというのが非常に重要で、地獄に行かないで天国に入るということは重要課題だったんです。いやしの事よりも死ぬ前にいかに罪を赦されるかということの方が重大な関心になったと思います。だから終油の秘跡なんだから死ぬ前に 油を塗るのでいやしの恵みではないんです。どちらかというと罪の赦しと償いを免除してもらうために油を塗るということで、ゆるしの秘跡とほとんど同じようになってしまった。 第二バチカン公会議の前まではそうだったんです。私の場合はローマンカラーをつけて病院行っても誰も驚かないですが、たとえばお坊さんは袈裟を着て病院には行けません。袈裟はお葬式というイメージだから着て入れないんです。お坊さんがお見舞いに行こうとしたら普通の服に着替えないといけないです。それは明らかで仏教=お葬式、袈裟=お葬式になってしまう。でも昔のカトリックの神父はそうだったんです 。病院へ行ったら明らかに終油の秘跡を授けに行くのだから、ローマンカラーで行くと、亡くなる方がいるからということになってしまう。 長い間のイメージの固定になってしまった。それは罪とか赦しとか償いの免除とか、その辺りにカトリック信者の主要な関心事がそこだったんです。でも第二バチカン公会議の時に明らかに聖書には書いていないんです。亡くなる前の人の額に油を塗るというのはどこにも載っていないんです。今みたように油を塗るのはいやしのためです。病気のために油を塗るのは聖書の独特の考えなので、第二バチカン公会議でこれをやめてこっちにしました。だから亡くなる人のためにではなくて、病人のために油を塗る式として改変されたということです。 病気が進めば死が近づくので、今病者の塗油は基本的には重大な病気、死につながる病気とか、重大な手術の前に受けるのが普通です。そして老齢者の人は死が近いということで、病者の塗油を受けることができるとなっています。だからこの教会では敬老の日があるからでしょう、長寿の集いというのがあります。75歳以上の方ですが、この教会には約三千人の膨大な数の方がいて、病者の塗油を授けてかなり簡略化された形です。 みなさんはまだ受けたことがないから、将来的には受けない方がいいですけれども、一生のうちに何回かぐらいでしょうか、そんなにたくさん受けるほどでもないです。そして病者の塗油の6つの要素です。儀式書には書いてありますが、1 回心。悔い改めの祈りをする。ミサと同等の悔い改めの祈りをします。だから罪の赦しということと、いやしというのはどこか関係があるということなので悔い改める。できればゆるしの秘跡を一緒に預かったらいいと思います。あまりできないので回心の祈りの要素も入っています。2 御言葉。聖書朗読するということです。これも御言葉にいやしの力があるからです。それで御言葉を朗読します。たとえばイエス様が病人をいやした時に言葉だけでいやされた部分が多々あるんです。「行きなさい 。あなたの信仰があなたを救った。」と言葉を喋るだけでいやされています。イエス様の言葉にはもともといやしの力が含まれている。だから朗読が必ず入ります。御言葉にはいやしの力があるからです。3 共同祈願。この病人がいやされますようにとか、これは信仰に基づく祈りです。つまり神様にいやしてくださいと信仰を持ってお願いする。共同祈願という話ですがもちろんいやしてくださいという願いを持ってということになります。4 按手。だいたい沈黙で司祭が限定されていて、教会の長老が頭に手を置いていやしを 願うということです。これはイエス様の動作から来ています。その人に触れてイエス様がいやされることは度々あります。イエス様と同じように手を触れてという意味と、按手するというのは聖霊の恵みを願うという動作です。つまりいやしは聖霊の恵みそのものですから、手を置くというのは聖霊が働くように司祭がお祈りする。 5 賛美の祈り。2ヶ月に1回ぐらいは病院へ行って、主に病者の塗油を授けたりすることがあります。特に亡くなる前の元気な時に授けることが多いです。なぜ賛美の祈りが入っているかですが、賛美にはいやしの力があるからです。ヤコブの手紙に「喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」と書いてありますが、喜びがなくても神様に賛美をささげると神様のいやしの力が非常に働きやすい。 6 塗油。決まった文言を唱えながら油を塗るということです。額と両手の平です。患部にはなかなか塗りにくい。 この油は司教様が祝福した油を使うのが普通です。聖木曜日のお昼前に、聖香油のミサというものを司教様の元で、司祭が全員集まってささげるミサがあります。その中で三つの油を祝福します。一つは病者の塗油の油。もう一つは洗礼志願式の油。もう一つは洗礼式と堅信式に使う三つの油を祝福して、祝福したものを大きな甕のようなものに入れて、もらって帰ってきます。それを一年間使います。もちろんどんな油でもいいので、司祭が祝福して使うのもいいです。1から6までの要素が病者の塗油の主要な要素になります。病者の塗油そのものを受けるチャンスはもともと少ないですが、皆さんが病気だったり家族が病気だったりしてお祈りするようになると思いますが、そういう時は 1から 6までの要素を生かしてお祈りすればいい。つまりこれら6つの要素にはいやしの要素があるからです。それをちょっと心がけたらいいと思います。だからたとえば1ですけれども、病気の時はやっぱり 振り返ったらいいこともあります。あまり暴飲暴食をしていて疲れが溜まっていて胃潰瘍になってしまったとか、風邪引いたとかどこか生活を直すきっかけにもなるわけですから、自分自身の事を反省してみるのもいやしに繋がると思います。当然、御言葉から力をいただくということです。どこを読むというわけではありませんが、ある箇所を読んでいたら、今の苦しみ を乗り越えるヒントみたいなものが示されるものがよくあります。聖書を読むということを通して、いやしの恵みが与えられるということはわたしたちにはあります。だから御言葉を通してということは、いやしの恵みを得られる一つのきっかけになると思います。そして3 共同祈願。信仰に基づくお祈りを神にささげる。 自分のためかもしれないし、家族のためかもしれないし、そのように信仰のお祈りをささげることによって、いやしの恵みが働くということはあります。神様に信頼して恵みを願うということも大事だと思います。4 按手。 正式には病者の塗油は 手を置いて按手するんですけれども、普通に考えても苦しんでいる人に看護師さんが手を握ってあげるだけでだいぶ助かったり、子供の背中をさすってあげたり、その人に触れていやしの恵みはあると思います。その態度によっていやしの恵みが働くというのはありますから、そのようなこともいやしの中で起こりうる大切なこととして受け止めればいいと思います。そばにいてあげるだけでだいぶ嬉しかったり、そういうことも含めて動作でということもあります。5 賛美の祈り。先ほども言いましたが、賛美をすることによって自分の気持ちも明るくなったりすることもありますから、詩編を唱えたり歌ったりするのもいいと思います。 賛美をすることによって自分の心もそうだし状況が色々変わることがある。 6 塗油。 神父様が塗るのはしるし程度です。油というものに何か薬用成分みたいなものがあるのは事実かもしれませんが。この6つの要素はいやしを願う時にいかされ、いやしの恵みが与えられるのではないかと思います。カトリックのカテキズム、病者の塗油の秘跡の効果は何であるか、単純にいやしなのかなと思ったら、病者の塗油を受けたから必ず病気が治るというわけではないですが、この秘跡の効果は何なのか。カテキズムにこう書いてあります。「 病者の秘跡の塗油は病人との全教会の全益ために、病人をキリストの受難に一層緊密に一致させる特別の恵みをもたらします。」簡単に言うと 病者の塗油の効果は何かと言ったらはっきりと書いてあるのは、キリストの受難と一致させる為と書いてあります。イエス様の十字架上の苦しみと一致させる特別なお恵みだということです。だから単純にいやされるとは書いていないんです。 なかなかこれは考えさせられる深いものがあります。それがイエス様の自分自身の苦しみとイエス様の十字架上の苦しみが一つになることは一番のお恵みだということです。病気になった時に最終的に祈るのはこれなんです。最終的にはイエス様の十字架の苦しみと心を合わせるお祈りしかないのです。このように書いてあるのはすごいと思いました。イエス様の受難と結びつけられるからこそ、「慰め、平安、勇気、罪の赦しが与えられます」と書いてあります。慰めと平安は感じることは多いです。手術の前の勇気を持ってというのはこの秘跡を通して与えられることは度々あります。そして「この神の思し召しがあれば、時として肉体的健康の回復を可能にすることもある。 」ある時は肉体的健康が回復することがあります。それが一番の目的ではありません。場合によっては肉体的健康が回復されることもあります。必ずとは書いてありません。でももう亡くなりそうだと、お医者さんからあと一週間だと言われて、病者の塗油に行って、命が延びることは多々あります 。2ヶ月ぐらい命が伸びることも度々経験しています。肉体的嫌悪感をなんらかしら与えられるけれども、それはどちらかと言うと付属的で、もっと大事なのはこっちだと思います。そしてキリストの受難がある以上、復活の恵みにも預かれる希望が与えられています。いやしの恵みそのものがイエス様の受難と復活からくるということになるわけですから、イエス様に対する信仰のお恵みは、受難と復活から来ると言えるのではないかと思います。だからこの秘跡のお恵みは素晴らしいものがあると思います。第二バチカン公会議の文章でも同じように出ています。病気ということを意味あることとして受け止めることができる。意味あるものとして受け取って、イエス様の受難と心を合わせて、復活の恵みによって歩んで行く。 そのようなものとしてしっかり意識できるようにこの秘跡が与えられるということで、わたしたちが日頃感じている病気とかをこのように受けとればいいと言えると思います。これに付随して一言だけ付け加えると、七つの秘跡が正式であってその他に十二の秘跡というものがあります。そのうちの一つが 「祓魔師」英語で言うとエクソシズム、悪霊の追い出しは準秘跡として定められています。これも長い長い伝統があって一番最初のところから病人のいやしと悪霊の追い出しはセットでずっとイエス様の時から描かれています。だから古代からずっとエクソシズムは行われてきた。現代は行われにくくなってきた。変なものも入らないようにということでしょうが、大司教様の許可が必要です。ある神父様に許可したり、一回だけいいと許可したり、何かがあって祓魔師というのがエクソシストで、任命された神父様が悪魔がついていると思われる人にエクソシズムを行うことは可能だということです。恒久的にエクソシストとして任命されている神父様は今はいないと思われます。限定的に一回限りで出されることはあったりします。ちゃんと式文があり、わたしも持っていますがラテン語版しかありません。だからよく分からないということです。ラテン語ができる人でないとできない。 それほど今は一般的ではないということです。ただローマではかえってこういうことも必要ではないかということで、エクソシストを養成する授業を神学校で行っています。
エクソシズムは正式に決まっているから式分があるからその通りにやります。しかも司教様から任命されている人が行うということです。でも正式でなければ悪霊の追い出しはあちこちで行われています。秘跡としてではなく祈りとしてです。 悪霊の追い出しの祈りをすることはしばしばあります。そういうのに関っている神父様はおられます。私の個人的意見から言うと、物理的に追い出すことはあまり意味がないと思います。悪霊が働くということは罪との関係が深いものだから、回心であったりいやしであったりということとつないで考えた方が健全かと思います。しかも信仰生活をしっかり生きるということの方が重要かなと一般的に考えます。ただカトリック教会は公式的にはカテキズムとして悪霊は存在すると。つまり決定的に神から離れた天使が堕落して、天使や悪魔がどれくらいいるか分からないけれども、司祭や信者の中にもシンボル的で実体はないという方もおられるでしょうが、でもカトリック教会として悪霊の存在を否定したことはないと思います。教えとしてはいます。わたしたち は多かれ少なかれ悪霊の影響を受けているということも事実であろうと思われます。ただ一番大事なのは信仰を生きていくということと、悪の誘惑は絶つのが大事かと思います。洗礼志願式の中に悪霊からの解放の祈りが入っています。だから洗礼を受けるということは悪霊との関わりを断つということになります。だから洗礼志願式で悪霊の解放の祈りが入って、洗礼志願式の油が悪霊からの解放の意味が強いと思います。洗礼式の時に聞くのは日本語では「悪を退けますか」とか三回退けますかと聞くんですが、原文ではあれは悪魔の業を退けますかです。日本語で訳すとおかしいから「悪を」になります。本当は悪魔の業を退けますということを宣言する。洗礼を受けるということが悪霊との関わりを絶つという意味があるんです。だから洗礼を受けている方々はその気持ちをずっと持ち続ける。悪霊との関わりを絶つという意識で生きることと、神様を信じるということを生きるということが一番基本にはなるのではないかと思います。だから式を受けたらいいかどうかという問題ではないと思います十

 

2016 年 11 月 28 日(月)
第 20 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記