カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-12-16 主において常に喜びなさい

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会

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ルカによる福音書 3章10-18節(そのとき、群衆はヨハネに、)「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた十

  今日は待降節の第三主日にあたります。伝統的に待降節の第三の主日は、待降節の中でも喜びを大切にするようになっています。この日は司祭はピンクのカズラを着る習慣があります。今日着てきても良かったんですが、イグナチオ教会のカズラが大きすぎて長すぎるのでやめました。喜びを大事にするというのがこの第三主日の特徴になっています。第一朗読で 「喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。」とか、第二朗読でも 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」喜びが強調されています。確かにわたしたちの信仰生活においても、喜びは大事だということは確かだと思います。もちろん日常生活で 苦しいことや忙しいこともあるでしょうけれども、わたしたちは喜びを大事にしていくということ、それが信仰生活の基本であるということが言えると思います。  みなさんもご存知と思いますが加藤一二三さん。テレビでひふみんと呼ばれて、イグナチオ教会の信者さんで、よくミサに来られています。たまたまクラシックのラジオ番組で彼がゲスト出演していました。わたしはクラシックが好きなのでそのラジオ番組を聞いていたら、彼が色々な話をしてくれてその中で、長い将棋の世界の中で大スランプの時があったと言います。それは指しても指しても負けが続いてしまって、将棋の世界も厳しく勝ち負けで結果が出てしまうわけで、負けが続いたらあっという間に降格してしまいます。それでずっと負けが続いていて、なかなかスランプをずっと脱出することはできませんでした。そしてある試合の日の朝にモーツァルトのバイオリン協奏曲の第三番を聞いたら、割と明るい感じの曲だったそうです。その番組ではバイオリニストの名前を聞けませんでしたが、先程ひふみんに会えて、そのバイオリニストは誰ですかと聞いたらイツァーク・パールマンでした。バイオリンがものすごく上手な上にその演奏は遊び心のような、ユーモアのセンスとかそういうもので弾いていた。その遊び心がすごく心に響いた。勝負の世界ですから逆に遊び心なしに集中して頑張らなければならない。でもそれだとうまくいっていなかったけれども、パールマンのモーツァルトのバイオリン協奏曲の演奏を聴いて、遊び心と言うか心の余裕と言うか、そういうものが必要なんだということが転機になって、それでスランプから抜け出し、その後、連勝することができたそうです。転機になったのは遊び心とか心の余裕というか楽しむ心というか。なんでもかんでも頑張ればいいというわけではない。やはりそこには心の余裕というか遊び心というものがあるからこそ、本来の自分の力が発揮できるということは確かにあるでしょう。そして今日の喜びなさいというのもそういう面はあると思います。信者の方はもちろん真面目な生活をされている方が多いと思いますけれども、でもただ単に真面目であればいいというわけではないです。フランシスコ教皇様も「福音の喜び」という本を書かれた中で、 信者の皆さんの中には365日、ずっと四旬節のような顔をしている人が多いと書いてありました。でもわたしたちの信仰は、神の恵みの喜びの中にあるという。そしてそれはわたしたちの心の余裕とかユーモアで楽しむような、そういうことが大事だということが、信仰生活にもあるとまさしくその通りではないかと思います。  5月に帰天された前任の主任司祭の佐々木神父様はモーツァルトが好きでした。亡くなったあとの部屋にはモーツァルトの CD がいっぱいあり、それを引き取って、しばらくずっとモーツァルトばかりを聞いていました。でも聞いているとモーツァルトの軽さが気になって、だんだん聞かなくなりました。ご葬儀の時にはモーツァルトのレクイエムをかけるように言われ、ずっと流れていたのを聞いていたらとても聞く気になれなくなって、モーツァルトそのものが苦手になりました。わたしはどちらかと言うとベートーベンやバッハやラフマニロフとか重い曲が好きなんですが、でもこのひふみんの話を聞いて、そうだなと思いました。いつもいつも真面目に頑張るのではなくて、やはり気持ちに余裕を持って、特に行き詰まったり難しくなった時にこそ、わたしたちは遊び心を持って生きていくということが、主に喜ばれることではないかと思います。だからこの第二朗読で言うんです。 フィリピの教会というのはパウロのお気に入りの教会なんですが「喜びなさい。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」苦しみそのものはいろいろありますが、わたしたちの問題は厳しい現実そのものではなくて、それに伴う思い煩い、ああでもないこうでもないとか、それについて考えたり苦しみを引きずってしまうことが思い煩いで、それは必要ないことです。思い煩ってもなくても現実は変わらないです。そうしたら自分の心を無理に否定的に持っていく必要はないでしょう。だからパウロはこう言うんです。 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」だから苦しみがなくなるわけではないから、神様に感謝を込めて祈りと願いを捧げなさいと、シンプルに苦しい時に神様に頼りなさいということです。すると 「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と書いてあるわけです。この神様をわたしたちも信頼していきたいと思います。モーツァルトもカトリックで信心深かったかどうかはわかりませんが、ひふみんの話だと、モーツアルトは郊外の小さな教会にいるのが好きだったそうでそういうところがあったんでしょう。モーツァルトの音楽は苦しみを超えた天国の喜びをそのまま表現しているような感じがします。わたしたちはいつも現実を超えた喜びの世界に招かれているし、喜びの世界を生きるように招かれていると思います。イエス様の誕生をわたしたちは喜びながら待ち望む。渋い顔をしながら待ち望むのではなくて、喜びの中でイエス様を待ち望んで生きることができるように。そして主がわたしたちを見捨てることはなく、必ず助けてくださって良い道を示してくださることは確かですから、神様の信頼のうちにわたしたちは歩んで行けるように、共に祈りを捧げましょう十

 第一朗読  ゼファニヤ書 3章14-17節
娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4章4-7節
(皆さん、)主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう十

 

 

 2018 年 12 月 15 日(土)18時ミサ
  待降節第三主日〈桃〉C 年 

 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記