カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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190526 堅信準備会

英神父 講話 イグナチオ教会 於

  元々初代教会の成人洗礼と堅信式は同時に行っていました。中世になって全員信者になってから、ほとんどの人が幼い頃に洗礼を受けることになって、それから堅信が行われるようになりました。堅信は今でしたら中学生高校生ぐらいで、いわば大人になると言うか成人式みたいにするようになりました。以前東京教区の当時の大司教様に聞いたら、イグナチオ教会は式を分けるか一緒にするかどちらが良いですかと聞いたら、東京教区は決めていませんという答えでしたから、神学的にはどちらでもよくて、洗礼の恵みの中に聖霊は入っているので、神父様によっては洗礼式の時に堅信をされている方もおられます。ただイグナチオ教会は原則とし分けるということです。洗礼式を受けて三年以内ぐらいに堅信式に預かるという形に分けています。なんでかといったら、信仰というのはプロセスだからです。信仰が深まる、身につくというのは、洗礼を受けたらその時から突然全てが分かる信者さんになるわけではありません。皆さんは成熟している成人の方だと思います。信仰の面でも、信仰を身につけて行くということはだんだんとしていくということです。急に成熟した信者になるわけではありません。洗礼の恵みをいただいて生きるということはプロセスなんです。洗礼式とか堅信式とかは一回だけですけれども、わたしたちは実際は少しずつ神の恵みの中で信仰の面で成長していく必要性がある。しかも死ぬまでということです。そのためにも堅信式を分けるということも意味があるのではないかと思います。それでこの教会では伝統的に分けている。式を分けると司教様にしか授けられません。ただ今回は130人ぐらいの方が堅信に預かって、司教様一人では不可能なので、司教の権限を預かった神父様方が四箇所ぐらいでされます。いずれも司教の権限になることです。だから司教様に来ていただきます。それでは堅信式で聖霊の恵みを受けるということはどういうことかを、聖書を読みながら見ていきます。ヨハネの福音書2章19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」イエス様が復活されたところです。イエス様が十字架にかかられて全てが終わってしまった。金曜日の夕方ぐらいに亡くなられて、土曜日の安息日でみんな外に出ることはできなくて、日曜日の朝、マグダラのマリアがイエス様に出会って、でも多分弟子達はすぐには信じられなかったでしょう。日曜日の夕方「弟子達はユダヤ人を恐れて」エルサレムのどこかの家に滞在していたでしょう。自分たちの家に鍵をかけて、自分たちが迫害されるのを恐れていたのでしょう。そこに突然、真ん中に肉体を持ってイエス様が現れた。『あなたがたに平和があるように』と非常に不思議な出来事です。わたしたちクリスチャンの信仰は復活したイエス様を信じるということが基本になっています。そして「手と脇腹と」なぜ手と脇腹を見せたかと言うと、復活したイエス様の体には釘の跡があったからです。イエス様が十字架にかかられていた時に釘にうたれていたんですけれども、手と足と脇腹と傷が残っていたので、それでご自分のアイデンティティの証明みたいになったのですが。十字架にかかったイエス様がどういうことかということを示されました。「弟子たちは、主を見て喜んだ。」イエス様は重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように」ということです。「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」ここで聖霊を受けるわけです。ヨハネの福音書ではイエス様が復活される時に、聖霊を受けることが同時に与えられるということです。特に聖霊の力が強調されているのは、「わたしはあなたがたを遣わす」遣わすということと聖霊の働きということは、深く繋がっていると言えるのではないかと思います。というのは、中学生会、高校生会の堅信の勉強を別グループでやっていますが、10回ぐらいやっています。教会のリーダーが 中学生、高校生に教えています。テキストがあってそこに「洗礼と堅信はどう違うか」神学的には同じなんですけれども、ぱっと見て改めてわたしは分からなかったんですけれどもその答えは、「洗礼は自分のため。堅信は人のため。」と書いてありました。なるほどな、と思いました。皆さんが洗礼を受けた時にはそれなりのきっかけや動機や、いただいたお恵みがあるかもしれませんが、多分、多くの人は自分のためでしょう。平安が与えられるようにとか、あるいは自分の生き方が何か落ち着いたとか、何か生きがいを感じるような、多くの人にとって洗礼というのは自分の生き方が整うとか、自分の生きる核になるものを得るとか。聖霊の働きはもちろん洗礼に入っているんですが、今言った遣わす。自分のためだけではなしに、誰かのために遣わす。堅信を受けるだけではなくて、考えていただきたい大きなポイントは、自分はどこに遣わされて、何をするように呼ばれているか。もちろん洗礼を受けられた誰かのために意識しておられる方も多いと思いますが、より自分の命をクリスチャンの生活を、もちろん自分の救いも大事なんですが、周りの人との関係はどうなのかということです。あるいは遣わすという言葉がキリスト教的な表現ですが、結局、神様がわたしたちをどこかに遣わす、どこかに派遣する。わたしたちは行きたい所に行ったり、たまたまそこの会社だったり、結婚したり、たまたま親の介護が必要だったりいろいろあるわけですが、基本は神様はわたし達をそこに遣わしたい。あるいはそこに居続けるように呼ばれるように、そこから何らかの所に遣わされる人がいるかもしれません。聖霊の働きというのは動きなんです。聖霊という言葉は風というか、イエス様が息を吹きかけられますが、聖霊とは風のようなエネルギーの流れのようなものです。だからジッと留まっているよりは、聖霊の働きによってどこかに行くということ。まさしく遣わされて息を吹きかけて、風を送って帆を張った船が進んでいくような感じで、イエス様が息を吹きかけたような。みなさんは遣わされている存在なんだと。自分はどこで何をするようにクリスチャンとして遣わされているのかということを、少し振り返られたらいいと思います。ほとんどの人は今やっていることをそのような観点で見つめ直す。今の家庭や今の仕事ののポジションから見直す。ある人は変わるように呼ばれている人もいるかもしれない。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊をうけなさい。」一つは世に遣わされるためにその後「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」聖霊の働きは赦しと深い関係がある。先ほど赦しの秘跡の話をしましたけれども、なんで赦しの秘跡が成立するかと言ったら聖霊が働いているからです。   

   信仰が成長するお話しですが「成熟した信者」という子供ではなく大人の信仰を持っている成熟した信者とはどういう人か、定義をわたしなりにしていてどういうことかというと、神父につまずかない、信者につまずかないで信仰を保っている人。成熟した信者の定義はつまずかない人です。みなさんは入門講座で神父やシスターや信者に導かれた方が多いと思いますが、そういう方は立派に見える事が多いいです。でも神父やシスターにつまずくことが遅かれ早かれ起こりうる。それは神父やシスターも人間だからです。長くやっていると、だんだんと人間的な欠点が見えてつまずきに感じることもあります。イグナチオ教会で働いている神父やシスターは平均的と思いますが、世界の教会全体を考えたら、どうしようもない信じられない神父やシスターはいます。たとえばすごく信頼している神父様がおられて、そしてものすごい欠点があることが分かって、それで教会に来なくなったら、それは大人の信仰ではないということです。神父がどうであろうとみなさんが信じているのは神様なので、神父が立派であろうがなかろうが、どちらでもいいと思えなければなりません。それが成熟した信仰だということです。 あの神父は立派だとか思われるのはいいですが、神父は信仰の対象ではありません。神様を信仰するということです。信者でも同じで立派な信者さんはおられます。わたしが見てもこの人は素晴らしい信仰があって 、それも目立たないところでたくさんおられて尊敬の気持ちを持つことも多いです。でもこの人はなんで信者なんだろうと疑う信者さんもいっぱいいます。そういう人が信者の集まりに行ったらいじめられたとか、すごく言われたというのは起こり得ます。それで嫌になって教会に行かなくなるというのは大人の信仰ではないということです。良い信者がいようといまいと 関係ない話です。信仰というのは神様を 信じているんだから 人間の集まり がどうであろうとどっちでもいい話です。 だから教会全体でいつの時代でもすごいスキャンダルがあったり悪い部分がもちろんあるわけです。良い部分ももちろんありますが、それに振り回されないのが大事で、だからゆるしが必要だということです。「だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 と書いてあるから自分の責任なので。あの神父様はゆるせないということは自分の側にゆるしがないということです。 ゆるすことができるというのは成熟した信仰がないとできないことです。 みなさんも過去の体験でゆるせない人がおられるかもしれない。すごく傷つけられたとか、ゆるせる、ゆるせないというのは大きな問題ですけれども、ゆるせる、ということは成熟していないとできないことです 。だからこれは聖霊の恵みなしにはできないということが書いてあると意識されたらいいと思います。   ついでに言うと一人の神父様にずっと付いている信者を「神父病」と言います。この神父様でなければダメだと追っかけになってしまう 。この神父様でなければダメだという方が必ず出てきてしまうけれど、わたしたちが追っかけるのは神様だけです。神様だけを追いかけるようにして 、人間をあまり見つめすぎてはダメということなんです。 イグナチオ教会は多くの神父様の話が聞けますが、地方では同じ神父様の話を年中聞くことになります。どうであろうと教会には毎回行くわけで、神父の説教がどうのというのは関係ないです。神様を見て、その他のことを相対化して生きられるかどうか 。それが大人の信仰です。 イグナチオ教会でも、もしかしたらスキャンダルがあるかもしれない。もし起きて教会に来ないというのは全く関係ない次元が違う。世界全体の教会で見たらご存知のとおり、司祭の幼児への性的虐待問題がものすごく大きな問題になっています。それが嫌になって教会を離れる人もおられるかもしれない。でも周りがどんなにひどい人間であろうと、わたしたちは人間を超えた神様としっかりつながる信仰を養わないとダメです。人間を通さないで、自分は神様や イエス様としっかり結びついている信仰が必要です。それは 時間がかかりますから、ミサに出たり 説教を聞いたりお話を聞いたりしながら、少しずつ大人の信仰を養っていただけたらいいのではないかと思います。

 コリントの信徒への手紙 第一 12章1節 「 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」コリントの信徒への手紙の中での一つのお話なんですが、コリントの街は割と信仰の都市でした。 近くにアテネがあり、アテネの方が文化としてギリシャ哲学が盛んでしたが、そこではパウロの活動はあまりうまくいかなかった。コリントに来てアキラとプリスカという人と一緒に活動してうまくいきました。コリントの信徒への手紙 一と二はやや長い箇所です。12章1節 「 兄弟たち、霊的な賜物については」と書いてあるんですが、聖霊の働きと賜物というのがすごく関係が深いということです。 聖霊の働きには必ず賜物が伴う。賜物というのは英語で言えばギフト、贈り物です。聖霊の働きでいえば、聖霊の働きは一人ひとり違う。賜物はギリシャ語で言ったらカリスマになります。だからカリスマ的といったら特別な才能を持っている人のように今は使いますけれど、でも聖霊が一人ひとりに働いて、一人ひとりにカリスマがある、賜物があると考えているわけです。なかなか難しい問いですが、一人ひとりに霊的な賜物が与えられている。あるいは与えられつつある。成熟した信仰者にはもう一つのポイントがあって、自分のカリスマが分かっている。自分に与えられて いる賜物は何かが分かっていて、その賜物を活かす 生活をしている。だから先ほどの遣わすということと深い関係があります。遣わされて自分に与えられている賜物を活かす生き方をすることが一番大事です。たとえば4節「賜物にはいろいろあります」つまり一人ひとり人間の才能とか能力は違っているけれども、それをお与えになるのは同じ霊、つまり聖霊は一つですから同じ霊が一人ひとりに働くと、一人ひとりに違うものとしてあらわれる。7節 「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」だから自分の益のためではなく、賜物はそれぞれが違う 働きをするから全体的な益になる。だから賜物は 自分のためにではなくて、人のためにそれを活かして誰かのためにする。   そのあとにあまり聞きなれないでしょうけれども、聖霊の 九つの賜物が書いてあります。知恵、知識、信仰、癒し、奇跡、預言、霊の識別、異言、異言の解釈。あまりピンとこないかもしれませんが、いずれにせよこれもすぐにではなくて、自分の賜物とか、クリスチャンとしての自分の務めは何なのかということを気づいていかれたら、あるいは意識されていかれたらいいと思います。たとえば自分自身が何に関心があるか、どういうところに興味があるかを問うてみたらいいかもしれない。クリスチャンとして生きていこうとする時に、どういうことに興味や関心を強く感じるか、感じるようになったのかということをみてみたらいいと思います。ある方は「幼い子供が何で死んでいくのか。 なんで小さい罪のない子供が病気で苦しんでいるのか 。」小さな子供が難病にかかって亡くなっていることに対して、わたしはかなり問い詰められました。でもやはり答えはありません。結局その方は小児病院でボランティアをしました。つまりそういう子供を助けるボランティアに つきました。答えが見つかるかどうかは分からないですが。だから自分が関心や興味があることがきっかけになって、何かを始める方もおられるというわけです。よくみられる方は、元々歌が好きで、クリスチャンになってから聖歌隊に入られ、それでなぜ今まで自分は歌を歌ってきたのかが統合された。歌を通して神様を賛美することが一番の目標だったといわれる。だからどういうことがきっかけで 遣わされるか。自分はどういう賜物に出会いを活かせるかというのは難しいですけれども、自分が関心があることや、あるいは自分がやってみたい、やっているそのものを心がけて意識されたらいいと思います。たとえば、わたし自身は二十歳で洗礼を受けました。洗礼を受けて世界が明るくなったと言うか、それまで悲観的に物事を考えていたほうですが、洗礼を受けることによって生きていて良かったんだという気持ちがするようになりました。そしてキリスト教的にいうと、愛という言葉が響きました。それで難民キャンプにボランティアに行ったりとか、そういうことを若い頃色々やりました。就職とかを考えた時に、自分が何に一番興味があるかをよく考えたら、神様の恵みを直接伝えるような仕事のほうがいいなと思いました。難民キャンプで弁護士さんとかお医者さんとかそういうのは一つの賜物であり、それで助けるということもあるけれども、やはり自分は人間の心とか神様とかそういうことが好きだとわかったので、神父になってそういうお話をするようになりました。人間の興味とかその人の傾向性とかが関係している向きがある気がします。 だからお祈り好きなほうです。人によっては聖堂で静かにお祈りしているより、世界に出てボランティアをするほうが良い、大胆に行く方が自分が活き活きとしているという方もおられるでしょうし、あるいは教会の中の様々な奉仕活動をすることが 生きがいだという方もおられるし、教会内よりも外の社会で奉仕するほうがいいという方もおられます。 今やっている仕事とかで、自分の賜物を活かしてやっていくのはどういうことかを、改めて問い直されてみたらいいかと思います。 だから仕事を変えてしまう方もおられます。クリスチャンとして仕事に生きがいを感じられなくて、転職して NPO などの仕事をされる方もおられ、そういうのも選択の一つでしょう。別の方は企業の中でこそやったほうがいいと、むしろそこで一生懸命クリスチャン的な生き方を追求する、なかなか難しいですけれども、でもやっぱりそれがいいと思う方もおられる。その人なりに聖霊を受けると、働き方一つ違ってきます。自分自身の場合はどうであるかと。たとえば定年して重荷を下ろされて、教会の中で大活躍する方はたくさんおられます。あるいは女性が子育てを終えて次のことに着手する方もおられる。 そういうことを自分なりに考えられたらいいと思います。もちろん今できなくても将来できることがあるかもしれません。 目につくことだけではなくて、静かに祈ることが好きな方もおられる。人前に立つことを呼ばれている方もおられるし、裏方で呼ばれている方もおられる。一人ひとり違うので、自分の場合はどうなのかと、問いかけられたらいいと思います。

コリントの信徒への手紙 一 12章12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。 」

 有名なパウロの手紙の箇所です。教会はキリストの体だということでわたしが好きな所です。 体は一つですけれども体の部分は違っているところがいいということです。何で違っているのかというと賜物が違うからです。 だから耳のような人もいれば、足のような人もいる。足のような人というのは体格がいい人でしょうか、手のような人というのは手先が器用な人でしょうか、たとえですが。一人一人違うよさがあって違うからこそみんなで補い合えます。教会においてもそうだし会社でも家庭においてもこの考えを活かしたらいいのでないかと思います。共同体というのはだいたい違っている人で補い合えるのが大きな喜びだと思います。でもパウロがなぜこれを書いたのか、そうではないからです。つまり仲間割れがあるから。「目が手に向かって『お前は要らない』とも言えず」と書いてあるのは、要らないと言う人がいるということです。仲間うちで争いはあるということです。ここでもゆるしという話が出てきます。本当に考えなければならないことです。   昔、あるボランティア団体の代表の方の話を聞いたのですが、ボランティアに来られる方はだいたい良い人が多いですが、人が集まるととにかく分裂、喧嘩が多い。喧嘩がない団体というのは、一つにはその団体ですごいカリスマ的なリーダーがいるところはまず喧嘩がない。その人の鶴の一声で全部決まるから問題がない。そしてやる気のない団体、休眠状態の団体は活動をやめているからだいたい問題、争いがない。そしてカリスマ的な存在がいなく、熱心な人たちが集まるところは 意見の相違とかで必ず分裂するというのです。やる気があるだけに 意見が対立したり分裂したりする。だから分裂するのはやる気がある証拠だ、喧嘩をするのはやる気があるからと言われていました。 だからそういうことは教会の中でも起こりうるし、頑張ってやればやるほどつい一緒にやっている人のことを批判したり、やっている者同士で競い合ったりする。だから最初に言ったゆるしがいかに大事かということです。違いを認めて 助け合えるかどうかということが、本当に大きな成熟した信仰者の必須条件だと思います。違う人を認められる、 人と協力しながらできる。熱心にやる気を持ちながら、人と協力しながら困難に立ち向かえる。一人一人違うんだから自分の意見はこうだけれども 、このことは誰かに任せる 。このようなことができるかどうかは大切なことだと思います。現代では核家族で役割分担と言えないかもしれないですが、教会だと人数が多いから緩衝材がいっぱいあって 少々のことはいろいろできると思います。人との違いと自分の良さを認めてやっていくのが理想的なものであると思います。そういうことを少し思い起こされたらいいと思います。そしてここの中で大事なのは22節「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」 考えさせられるところです。教会というのは単なるボランティア団体ではないということです。 何かを成し遂げたらいいわけではない、会社でもないです。ただ活動だけだったら活動の成果とかがでてきて、うまくいったかいかなかったかとなります。会社だったら売上げがあったかなかったか、学校だったら有名大学に何人入ったとかあるでしょう。でも教会や家庭もそうですが、目標は信仰の成長です。 だから目に見える成果があってもなくてもいいんです。教会は何も目に見える成果など求めなくていいのです。必要なのは一人一人に信仰において成長していけるかどうかです。だから弱く見える部分は必要だということがでてくる。そして成果主義になれば弱いものは切り捨てたほうが成果が上がるんです。 リストラするとかしたほうが能率効率が上がりますから、 今の時代の主流でそうしなければならない。 成果を一番大事にしないで、違うところにポイントがあるから弱く見える部分も必要だということです。だから教会の中にいろんな人がいていいんです。 教会でも明らかに病気の人もおられますが、能率効率なしにキリストの体を 生きていくということが目標だから、 特別な能力のある人の集まりではない。わたしたちはいかに助け合って生きていけるか、それ自身に一人一人に聖霊の働きがあるということです。だからなぜパウロがこういうことを書いているかといったら、コリントの教会はやる気があり過ぎて問題だらけだったんです。だから第一第二と二つの手紙を書かないとおさまらないぐらい問題があった。 第一第二とありますが実は四つぐらい手紙があるといわれているんです。コリントの教会はあまりにやる気があり過ぎて、信者がパウロを追い出す派とか いろいろ出てきて混乱が続いていたので書いたといわれています。   わたしたちはキリストの体の部分でお互いに助け合っている、ゆるしの気持ちを持って歩んで行く。教会と家庭、利益を求めない団体は、この原則を当てはめて考えたらいいのではないかと思います。   みんな年を取ればいろんなことができなくなって弱くなってきます。若い頃にはどんなに立派な神父様でも、年をとればそれなりです。みんなどうせ例外なく弱くなります。だから弱さを受け入れていくということは教会の本質です。社会全体がそうなればいいと思いますが。

ガラテヤの信徒への手紙は入門講座の中であまり扱わないほうですが、パウロの手紙でこれだけは読んだほうがいいというのがガラテヤの信徒への手紙です。ガラテヤの信徒への手紙がなかったら、キリスト教がキリスト教になっていなかったかもしれません。パウロがいなかったらユダヤ教の一派から脱出できなかった。 イエス様もマリア様も弟子たちも ユダヤ人です。律法を守らなければならないという文化の中にいて、イエス様だけは特別に律法にとらわれない全然違う世界を 言うことができました。イエス様が十字架にかけられて復活されて天に昇られて、聖霊が強く働いた時はまだ良かった。でも人間というのは過去に戻りたい気持ちがある。ユダヤ人の律法をもう一回守ろうという保守派の動きが強くなってきて、それが1章ぐらいに書いてあります。結局ペトロも巻き込まれて ユダヤ人の習慣に戻りました。パウロはユダヤ人だったけれど、自分の文化を全否定した、それがすごかったんです。 つまり律法を守るのではなくて、信仰によってこそわたしたちは救われるということを、パウロの回心の体験からはっきり分かっていたので、ガラテヤの教会がどんどん 律法を守るほうに流れていっていることに対して、パウロはペトロに対して怒ったと言われています。信仰が大事ではないかと書いたのはガラテヤの信徒への手紙で、これがなかったらキリスト教がキリスト教にならなかったぐらい大事です。もうちょっと詳しく書いたのがローマ人への手紙 です。ガラテヤの信徒への手紙 5章1節「 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」奴隷の軛とは何かというと律法のことです。律法を守る生き方が奴隷の軛だと 。わたしたちクリスチャンは洗礼の恵みによって自由を得たのです。13節 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」というわけです。16節「 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」難しい問題があるのですが、どういう問題があるかと言うとわたしたちはどう生きるかということです。何を基準に考えて生きていけばいいのか。先ほど言ったガラテヤの教会の時代の問題は何かと言ったら律法を守るかどうかが大事。もっと普遍的に言うと、わたしたちが生きていくためには 倫理や道徳がいるということです。 日本人としての法律があるし、あるいは日本の社会にいて守られなければならない道徳とか倫理があります。 それは 旧約聖書で言えば律法にあたります。だから道徳や倫理をただ単に守るだけでいいのかという問いでもあります。二千年間、長い伝統の中で教会法という法律が決まっている、しかもキリスト教倫理、キリスト教だったらどうやって生きるか倫理的な指針というのは出ているわけです 。だから完全に律法を否定しているわけではありません。やはりわたしたちは何か規範が必要だということはあるわけです。たとえば日本人の場合の規範は本当のところは何なのか、ある人は論語を日本人の生きる規範にすべきだと考えたりする人もいるでしょう。 日本人の実際の道徳の基盤は貞永式目というんです。鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令があります。日本人の倫理体系をつくった、基本は色々あるわけです。ではわたしたちはどういう規範で生きていたらいいのかというのは実は多く問われていることであります。今の日本の社会だったら過去の倫理が非常に曖昧になって、論語を規範にされている方は少ないでしょう。何を規範にすればいいのか。なぜこの話をするかというと、今、小学校、中学校で道徳という授業が必須になりました。それは日本の政府が今の日本人にとって大切な道徳とか倫理があやふやになっているから、教育の現場で小さい頃から道徳や倫理を教えなければならないということになりました。    パウロは律法を、一つの道徳体系をいわば否定しているわけです。どうやってそれをわたしたちは生きていくのかということですが、堅信式が6月の終わりですけれども、6月の初めの聖霊降臨の祝日に、イグナチオ教会の建堂20周年ミサをします。聖霊降臨の祝日というのはユダヤ教のお祭りでは五旬祭といい、使徒言行録の最初に出てくるのですが、キリスト教のお祝いというのはユダヤ教のお祝いに重なっています。主の復活の聖なる三日間の出来事と復活徹夜祭はユダヤ教の過ぎ越しの祭りと重なっています。日にちはちょっとずれているんですが、ユダヤ人は満月の時で、キリスト教は満月のあとの日曜日だから、日にちがずれることが多いです。聖霊降臨は五旬祭のお祭りに重なっています。五旬祭のお祭りは何かといったら、律法が与えられたユダヤ人にとってのお祝いの日です。五十日後、モーセがエジプトの民を脱出させて、 シナイ半島に戻って十戒の板をもらいます。それが律法の起源だから、十戒の板をもらったことをお祝いしています。その日に聖霊をお祝いしているということはどういうことかというと 、パウロの中でもそうで、律法の代わりに、聖霊が与えられたということです。だからわたしたちは パウロと同じ立場に立つべきです。大事なのは聖霊です。わたしたちの生き方の根本は霊の導きに従う生き方。ただ急に霊の導きに従うのは難しいから、教会は教会報とかキリスト教的倫理もあるわけです。それは予備判断です。先ほども言いましたが、子供は何か必要かというと 、子供は掟を理解して忠実に従うということはが基本的にしなければなりませんが、大人の場合は何かと言ったら、律法や倫理が何か分かった上で、この状況の中で何が最善かを自分で選ばなければならない。主体的判断と言うでしょう。それを霊の導きに従ってできるのが大人の信者だという、それを識別といいます。 何が霊の導きなのか、何が肉の業なのかを識別して生きていくということが大人の信仰者の務めです。こうすべきだということが分かった上で、でもこの状況の中でどういうことが本当の 主の導きなのかは自分で考えて祈って決断してやらなければならない。だからそのたびに司祭に聞いて いるわけにもいかない。自分で霊の導きはこうだとみい出してそれを決断していける。だから聖霊が働いている、主体的に生きていくために、霊の働きがみなさんに与えられている。非常に大切なことです。例えば皆さんが会社の中で家庭の中で様々な問題に出会うでしょう。その時その時の中で識別するんです。その中でどのような霊の導きがあるかということを見つけようとしながら、それを実践していくというのが大人な成熟した信仰。だから聖霊が掟の代わりにわたしたちに与えられていということです。だから今の小学校の道徳とかの教科書を見ても、こうしなさい、ああしなさいではなくて、考えさせるケーススタディみたいな教科書なんです。少年野球で監督の指示に従わず、 自分の判断でプレイして勝利した場合 、その子供は褒められるか否か。つまり和を乱して勝ったんだけれども、その勝利を褒められるか褒められないかを問われている。わたしの言葉で言えば識別です。むしろ監督の言葉を聞いて負けた方が良かったのではないか。でも監督の言葉を無視して勝ったから良かったではないか。どちらがいいかという質問を投げかけている教科書です。わたしたちも考えなければなりません。このようなことを一人一人ができればいいのではないかと思います十

     

   

 

 2019年 5 月 26  日(日)堅信準備会 
   カトリック麹町教会 ヨセフホール 於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 講話記