カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-09-01 神の偉大な愛の前に真の謙遜となる

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 14:1  安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」+

 今日の福音書では謙遜、へりくだりの大切さをたとえを使って話されています。婚宴に招待されたら末席に座るようにしなさいということです。末席に着くというのは謙遜さ、へりくだる生き方こそがわたしたちにとって大切なことだということを語っていると思います。逆は最初から上席に座ったりするような生き方で、神様が最も嫌う生き方は人間が傲慢になるということだろうと思います。傲慢になることこそが自然環境を破壊して、わたしたちの人間的な生き方を壊していく諸悪の根源であると言えるかもしれません。かつての金融資本主義が行き過ぎた頃の彼らの特徴は、今だけ、自分だけ、お金だけです。今儲かれば将来はいい。自分だけ良ければ周りの人がどうなろうが不幸になろうが構わない。今だけ自分だけお金だけ。お金を儲ければ他はどんなことになっても構わない。それは極端な人間の姿でしょう。そのような傲慢な意味でわたしたちは自然を破壊したり、社会の人間関係を悪くしているのは傲慢であると言えるかもしれません。強い者だけが生き残り弱いものを蹴落としていくとか、優生思想とかもこの一つだと思います。イエス様の生き方はその逆であって、謙遜とへりくだりということです。考えてみれば明らかですが、神様を前にしてわたしたちが偉そうに言うことはほとんどないわけで、人間一人一人には限界や欠点や弱さがある。そしてわたしたちは単なる被造物にしかすぎないことをしっかり認識するだけで、わたしたちは神の前にへりくだって、そして被造物を自然環境を大切にしよう、あるいは周りの人間関係を大切にしようという気持ちも湧いてくるのではないかと思います。       ある昔の神秘家が言っていたのは謙遜には二つの謙遜がある。一つはそれはわたしたちにとって普通の謙遜ですが、不完全の謙遜です。その謙遜は何かといったら、自分自身の弱さや罪深さを認めて、神の前でへりくだる。だれしもスーパーマンのようにできるわけではないですから、わたしたちの弱さや限界や小ささを素直に認めて、神の前にへりくだる。それだけでも十分な謙遜だと思いますが、神様の赦しを得て、わたしたちは周りの人々と身の丈を超えない形で生きていくということです。本当に大切なことだと思いますが、さらに完全な謙遜があるということです。完全な謙遜というのは一体何なのかというとそれは、神様の本当の素晴らしさを知っている人ということです。神様の愛とか赦し、神様の創造主としての凄さ。神様の恵みの大きさをありありと知れば知るほど、人間がどんなにちっぽけなのか、あまりに明らかということです。神様の莫大なお恵み。神様の全知全能の素晴らしさを心から分かれば分かるほど、自分を誇ることなんて馬鹿馬鹿しいということがはっきりとわかります。それが完全な謙遜であり、それこそが完全な真理だということです。わたしたちに与えれれている本当の真理は、神様こそ完全であり他のものは塵芥(ちりあくた)にすぎないということです。神様から見たら人間なんてアリ以下でしょう。人間がアリを見るように、アリ同士の喧嘩も小さい。神様の偉大さから見れば人間がやっていることなんて大したことはない。大したことのない人間を神様は心から愛しておられるわけです。神様の完全さに触れれば触れるほど、わたしたちは自分の謙遜さ小ささを知り、だからこそ周りの人を大切にしようという。あるいは神様につながれた、この自然を心から謙遜に大切にしようとする心が生まれてくるでしょう。完全な謙遜さに生きるようにわたしたちは全員招かれています。神様の偉大さをわたしたちはあまりに知らなさすぎるということです。だからこそわたしたちが一番心がけなければならないのは、いかに神様が偉大な方で、わたしたちの人生にどれほど深い恵みと力を与えてくださっているかということを、わたしたちが本当にもっと知ったほうが良いということです。この世の科学とか文学とか政治、経済を知ることも大事ですが、それ以上にそれら全てを支えておられる神様の恵みの凄さ、偉大さ、その全知全能の凄さをわたしたちはほんのちょっとでも知ることができたら、わたしたちの生き方はガラッと変わるでしょう。そしてそこから生まれる謙遜さは当たり前のことにしかすぎないということです。人間的なことを誇れば、どれほど愚かなことか。あるいは人間的ないさかいとかトラブルとかわたしたちの悩みとかがどれほどちっぽけで大したことがないかということを、神様の恵みを知れば知るほど明らかになる。でも残念ながら明らかな真理が明らかでないのです。信者さんの中でも神の恵みの凄さが隠されたまま、小さなことでくよくよ悩んだりすることに捕らわれてしまっているということがあり得ると思います。もちろん神様の恵みはあるけれども隠されている。その神様の素晴らしさ。神様の完全さに心を向けましょう。それこそが信仰の生き方であるし、それこそが祈りを深める、それこそが愛に生きているということだと思います。そのような本当の真理をフランシスコ教皇はご存知でしょうし、マザー・テレサにしろアッシジのフランシスコにしろその聖人方はその真理をありありと分かっていたということです。そのような神の恵みの素晴らしさの中で日々を歩んでいるということです。これを忘れないで、むしろ神様の恵みのうちにわたしたちは感謝と謙遜の心で歩んでいくことがこの一週間にできるように、神様にこのお恵みをお願いしたいと思います+

第一朗読  シラ書(集会の書) 3:17-18、20、28-29
子よ、何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にもまして愛される。
偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。
主の威光は壮大。主はへりくだる人によってあがめられる。
高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。彼の中には悪が深く根を下ろしている。
賢者の心は、格言を思い巡らし、知者の耳は、格言を熱心に聴く。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 12:18-19、22-24a
(みなさん、)あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス(なのです。)+

 

2019 年 9 月 1 日(日)8:30
 年間 第 22 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記