カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-09-08 手放せ

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 14:25-33 (そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」+

 今日の福音書では、大勢の群集がイエス様についてきたというわけですが、多くの人は単なる好奇心でついてきたのかもしれない。そこでイエス様が振り向いて、イエス様に従うということはかなり厳しいということを人々に告げる箇所になるわけです。確かに私たちはどういうつもりでイエス様に従っていくのかということを問いかけてみる必要性もあるのではないかと思います。  だいぶ前にある作家がエッセイで、趣味に生きている人間はあまり魅力的ではない。というようなことが書いてありました。つまり人間というのは仕事とかに力を注ぐべきであって、趣味の世界に時間を使っているということは本来的ではないみたいなことが書いてありました。確かにそうだという気もして、私もいろいろ趣味がありますが、趣味と仕事ははっきり分かれていて、趣味は単なる気晴らしで楽しいことを求めればいいわけですが、でも仕事とか家庭生活の大切なこととかは真剣に取り組まなければならないということは事実でしょう。今日のイエス様の言葉を聞いたら、私たちの信仰というのは趣味なのか、真剣に取り組むべきことなのかということです。それを問いかけてみる必要性があると思います。趣味だったら楽しみだけを求めて、嫌だったらやめればいいし、ちゃんと計画を立てる必要性もなく、あちこち適当でいいでしょう。でも仕事はやはり楽しかろうが辛かろうが、少々調子が悪かろうが、あるいは介護や子育てとかで真剣に家族と関わらなければならないというのは、どんなに嫌でもやらなければならないものになります。でも信仰というのは趣味ではないということです。今日のイエス様の言葉から言えば、それは自分の人生をかけて真剣に取り組むべきことであるということ。それをしっかり心に刻んで、そのように生きなければならないということです。一人一人の心の中を見ることはできませんが、ある人は信仰を趣味のように扱っている人がいるかもしれない。ここにいる皆さんは日曜の朝早くにいらしてるので、あてはまらないと思いますが。趣味のようなら日曜日のミサも来ても来なくてもどちらでも良いという次元になってしまうでしょう。あるいはちょっと嫌だったら教会から離れて、自分の調子のいい時だけ来るという。そういう次元で信仰を捉えることもできないではない。でも信仰の本当に大事なところは、楽しいから辛いからとか嬉しいからとか嫌なことがあるからということで振り回されるものではないということです。自分の人生をかけて取り組まなければならない最も大切なことと言えるでしょう。なぜならそのゴールは永遠の命に向かっているということですから、聖書に「腰をすえて考えてみないだろうか。」と書いてあるんですが、最近でいうなら老後にいくら残すかとかを腰を据えて計算しなさいと政府が言っているようにみえますが。計画は練っていた方がいいですが、イエス様はこの世の計画を練るという話ではありません。皆さんの霊魂が永遠の命に向かって歩んでいくかどうかということをちゃんと腰を据えて考えて、今日一日一日を歩みなさいとイエス様はおっしゃっています。それを私達は心に刻みましょう。信仰というのは仕事よりももっと大事かもしれません。家族の世話よりよりも大事なことかもしれません。仕事は定年がありますが、信仰生活に定年はありません。死ぬまで積み上げていかなければならない。それは毎日毎日の積み重ねの中であるものだと言えるでしょう。でも真剣に取り組むからといって単に頑張ればいいというものだけではない。頑張って獲得すればいいというものでもありません。最後のイエス様の言葉です。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」真剣に取り組んで何かを達成するとか獲得する、努力するとかというよりも、一切を捨てるということです。そういう次元のものだということです。分かったような、ないようなものでありますが。真剣に取り組むならば、単なる努力を積み重ねたり、達成していくものだけではなくて、そこで捨てるとか委ねるとか任せるとか、そういうことが大切なものだと。だから何か私たちの生き方を越えているところがあるということです。

だいぶ前ですが、日本人でない神父様がお話しされたんですが、若いときに、イエズス会に入るかどうするか迷っていて、どうするか考えていたんです。なかなか決められない時に交通事故に遭い、意識を失って、生死をさまようぐらいの危険な状態だったそうです。そういう時に、彼は毎晩夢を見たそうです。どういう夢かと言うと崖から落ちそうで木の根っこか何かに必死に掴まっていて、手を離したら崖の底に落ちてしまうような。生命の危機だったのでそういう夢を見たのかもしれません。彼は夢の中で木の根っこに掴まって落ちないように必死にしているのですが、なかなかそこから動けなくなっていたそうです。するととうとう上から声が聞こえてきて、それは「手放せ」という声が聞こえたそうです。彼は必死で掴まっているのに、手放したら落ちてしまうのに。上からの声は「手放せ」という声でした。それはずっと同じ声だったそうで、一生懸命しがみついているんだけれども、上から手放せという声がしているのだそうです。結局彼は夢の中で降参して手放したそうです。そして手放したとたんに劇的に回復して、意識不明の重体から生還することができたそうです。怪我が治ることができて、しかもイエズス会に入るという決断をはっきりできたということです。だから真剣になればなるほど、手放さなければならないということです。例えば皆さんの中でも家族の介護で疲れきっている方もおられるでしょう。でもそういう時にこそ必要でないものを手放さなければならない。手放した時に新たな世界が、新たな心境が与えられ、乗り越えていける力が与えられる。そのようなものが信仰の最も大切なところだと言えるかもしれません。本当に取り組むために、いろんなものをどんどん手放した時に、私たちは自由な心で本当に取り組まなければならないことに取り組むことができる力が与えられると言えるでしょう。恵みの世界に入るということです。そのような恵みの中で私たちが生きていけるように、そのような積み重ねというか日々の積み重ねの中で信仰生活を深めていくことができるように、神の恵みを祈り願いたいと思います+

第一朗読  知恵の書 9:13-18
「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」

第二朗読  フィレモンへの手紙 9b-10、12-17
(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください+

 

 

2019 年 9 月 8日(日)7:00
 年間 第 23 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記