カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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3-15 イエス様の心にだけ霊と真実を見いだす

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

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ヨハネによる福音書 4:5-15、19b-26、39a、40-42
(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」+

 今日の福音書はいわゆるサマリアの女とイエス様との関わりで、非常に印象深いお話だと思います。イエス様ご自身が旅に疲れて、この女に水を飲ませて下さいと頼むところから話が始まります。イエス様が頼んでいたのですけれども、途中から女の人の方がイエス様に「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」この水というのはイエス様は「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」その人の内から湧き出てくるような水をイエス様が与えてくださるというわけです。でも彼女はその水をそれまで飲むことができなかったわけです。なぜ彼女ができなかったかというと、それはイエス様が「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」とおっしゃるんです。プライバシーに関わる話しに突然なるわけです。その女の人の問題点ともいえるし、その女の人の乾いている理由になるわけですけれども、「わたしには夫はいません」というとイエス様が「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」とおっしゃいます。ここを読むときにいつも思うのですが、5人も6人も夫がいて幸せではなく、彼女は乾いていた。癒されないものを抱えていたのは事実でしょう。そこでイエス様、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」聖霊と真実をもって礼拝する生き方。それこそがわたしたちの内なる心からの永遠の命に至る水が湧き出してくる一つのポイントではないかと思います。この女の人はどうだったかというと、霊と真実をもってどころか、霊の反対、パウロ的にいえば肉の世界、嘘偽りの中に捕らわれていた生き方だったんでしょう。およそ霊と真実の生き方ではない逆の方向性で苦しんでいたといえるのではないかと思います。それをイエス様が彼女の混沌とした人生をイエス様と出会うことによって、聖霊の導きによる真実の生き方を発見することができたというお話だと思うのです。またこの女の人は6人の男性に振り回されていた人生だとも言えるでしょう。
そして今日の福音書を読むならば、今わたしたち自身が振り回されていないかどうかということではないかと思います。今の問題は新型コロナウィルスですが、朝から晩までテレビやネットでコロナ、コロナで、結局は何だか分からないようになってしまう危険性があるのも確かではないかと思います。これはコロナだけではないんですけれども、わたしたちの現代のことでいうならば、情報が溢れているわけです。スペインやイタリアがどうなったかがすぐ分かってしまうし、専門家や政治家が出てきて様々なことを言う。6人の男性どころか、わたしたちはコロナから出る様々な情報に振り回されがちなのは認めなければいけないでしょう。
「情報」というのは英語ではインフォメーションinformationです。インフォームが元で、フォームは形です。形あるものを伝えているのがインフォメーションの意味です。写真や映像、記事やデータだったり、形があるから色々理解できるわけです。問題は漢字で表す「情報」です。感情の「情」に報告の「報」と書きますが、よくよく考えたらインフォメーションではありません。しかも情けがついている。明治時代に作った言葉だそうですが、元々はインテリジェンス、スパイ活動でのインテリジェンスをどう訳すかということで、当時は「情報」という漢字にしました。元々は敵の様子を探るという言葉だったんです。それがいつのまにかインフォメーションになりました。情報の情は形の話ではなくて心の話でしょう。心のおきどころが報いられるということです。報という一番の意味は刑罰を受けるという意味です。情報という漢字の組み合わせは実は怖い言葉なんです。わたしたちの心の在り方が罰をうけるような。これだけの情報が流れてきたらフォーム、形を認識できるよりは心が変に動かされてしまう。まさしく情報の報の心の動きが変な方向に振り回されている、情報の在り方を語っている。単なるインフォメーションを得る話だけではありません。結局心が振り回されていて、分からない方向に報いがいってしまうような。このサマリアの女の6人男性のことですけれども、結局は外からのものに振り回される。報いは何かと言ったら霊と真実を見失っている方向に流されてしまったというお話です。わたしたちもそのようにこういう時になればなるほど流されてしまう。コロナの事は専門家ではないので分からないんですが、客観的なことよりも何か不安になったり捕らわれたり、良い方ではない方向に報いを受ける流れになってしまうということに気をつけなければなりません。わたしたちは心の働きの報いるところは何かといったら、イエス様に心を合わせるしかないということです。本当の意味での平安の水が湧いてくるには、本当の情報の源は、イエス様に心を合わせるしかない。本当の意味で整わないのは、漢字の意味から言えるのではないかと思います。わたしたちは信仰者である限りそこにポイントをおいた時に振り回されないものになるではないかと思います。もちろんわたしたちは素人だからコロナの事は分かりませんから、ある程度ガイドラインがないと駄目ですが、でもわたしたちの心の動きでさえも振り回されてある方向に流されてしまうとしたら、やはりサマリアの女の苦しみに落ちいってしまう可能性は十分あると思います。わたしたちはむしろ情報の源をイエス様の心とイエス様の生き方におく時にだけ、霊と真実の道を見いだすことができるのではないかと思います。
このサマリアの女に導かれた村人たちが最後に言うんです。「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」聞いて分かったから。これが本当のわたしたちのより所だということです。それをわたしたちは大事にしましょう。つまりイエス様から聞いて分かる。こういう時だからこそ、そこから霊と真実で導かれている。霊と真実の道を探しながら歩むことができるのではないかと思います。サマリアの女が捕らわれから解放されて、村人たちもイエス様から直接聞いて分かったといえる。それを彼らは出発点としていえるように、わたしたちもやはり信仰を出発点として、土台として、イエス様の生き方にわたしたちも心を合わせて共に歩めるように、特にこういう時ですからそれを意識して歩んでいきたいと思います。わたしたちにも霊と真実の道が示されると思いますから、それを見いだし、それに従って、わたしたちが歩んでいけるように心を合わせて祈りたいと思います+

第一朗読  出エジプト記 17:3-7
(その日、)民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:1-2、5-8
(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました+

 

2020 年 3 月 15 日(日)
 四旬節 第 3 主日〈紫〉A 年 
  カトリック麹町教会 ザビエル聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記