カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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10-18 全ての神のものは神にお返しする

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会於

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マタイによる福音書 22:15-21  
(そのとき、)ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

  イエス様はこの敵対している人々と、今日はファリサイ派とヘロデ派の人々とよく論争をしてですね、彼らがイエス様の言葉じりを捉えて、引っかけようとしているわけです。イエス様はそういう時でも真理のことばを語られるわけです。今回は皇帝に税金を納めるべきか納めるべきでないかということです。結局イエス様のこれも非常に有名な言葉ですが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」ということをイエス様がおっしゃるわけです。

皇帝のものは皇帝に。やはり神様はこの世界の秩序を基本的には大事にされているであろうと思います。わたしたちは日本で生きるならば、日本の国の法律などをある程度の習慣に従わなければならないでしょうし、やはり税金もちゃんと納めなければならないであろうと思います。

この世の様々なことをクリスチャンとしてもしっかり守るということが、当然基本的なことであろうと思います。だから当然「皇帝のものは皇帝に」地上のどこに生きているにしても、その国の習慣とか法律とか、道徳とかですね、そういうものに従わなきゃならないということ。それを大切にするってことが、わたしたちクリスチャンにとっても当たり前ですが大切なことだと思います。

ただ今日のお話で大事なのは「神のものは神に返しなさい」ということですよね。それの意味をわたしたちはしっかり捉えなければならないでしょう。

では何が神のものなのかですね。この日本である以上、日本の法律が適応されている地域ではあります。では神のものは神にということです。神のものはという、一体何が神のものなのかを、わたしたちは考えなければならない。

簡単に言うと、この世の中のもので、神でないものはないという。ひっくり返して言うならば。つまり簡単にいうと全てのものは神のものであるということです。別にイグナチオ教会の敷地だけが神のものであるというわけではないわけで、東京全体、あるいは日本全体、あるいは地球全体は、全て神のものであるということですね。

一番のしるしは何かと言ったら、わたしたちは自分の命は自分のものだと思っていますけれども。あるいは自分のお金とかですね自分の所有物。皇帝のものは皇帝にだから、わたしのものはわたしのものに、あなたのものはあなたのものと、一応所有権とかも一応認められています。

でもわたしの命そのものは、どうせそのうち死んでしまうんですね。ここにいる人全員死ぬわけですけれど。でも死ぬ時にはこの命さえ神様にお返しするしかないわけですよね。一番大切だと思っている自分の命ですら、永遠に自分のものじゃないわけで、神様にお返しするしかないわけですよね。結婚していてご自分のパートナーとどれほど深く愛し合っていても、時が来たらどっちかが先に死ぬわけで、そして神様にそのパートナーもお返ししなきゃならない。結局この世のものが全て神様のものだということですね。それを逆に言えばわたしたちは忘れていると言えるでしょう。

今日はデナリオン銀貨をイエス様が取り出してですね、「これは、だれの肖像と銘か」といって。一応皇帝の肖像が入っているから皇帝のものだ。この世のものは一応認めているわけで、日本国のお札だったら有名な人で、ドル紙幣だったらアメリカ合衆国の有名な人で、わたしのものだったら名前が書いてあって、誰だったら誰のものと名前を書いたりするわけですよね。時々修道院だと混ざっちゃうことがありますけれど、他の人のと混ざっちゃうことがないことはないけれど。まあそれでも一応名前とか書いてあって、わたしのものであるとか、別の人のと別れているわけですけれども、でも本当のところ名前を書くなら、本当の所有者の名前を書くとしたら、全部神様と書かなければならない。わたしたちはみんな仮に預かっているだけなんですよね。わたしたちはこの世のものは全て神様のものだと気づくならば。この聖堂だけではなしに、大自然も友達も家族も、全てが神様のものだとしたら、わたしたちはやっぱり感謝して神様から頂いているものをしっかり受け取らなければならないでしょう。

そしてその全てを神様にお返しする気持ちでわたしたちは日々の生活を歩まなきゃならない。皇帝のものは皇帝にだから、会社に行けば会社のルールに従う。あるいはカトリック教会に行ったら、カトリック教会のルールに従わなきゃならないでしょうし、お寺さんに行ったらお寺さんのルールに従います。それぞれに行ったらそれぞれのルールがあるから。もちろんそれは尊重されるものですが、もっと尊重されるのは、全世界を統べたもう神様の御手の中にわたしたちはあって、すべてのものを神様にお返しする気持ちで生きていかなきゃならないということだと思いますね。

だから早い話し、これは自分のものだとか言ってあんまり喧嘩するのとかは意味がない。もちろん隣りの人と境界線がどっちのものかはっきりさせた方がいいでしょうから。場合によってはちゃんと裁判もしなければならないこともある。でもいくら境界線を決めても全部神様のものですから、相手の土地も自分の土地もそうですから、その神様のもとにあるっていう気持ちでわたしたちが歩むならば、小さな喧嘩や思い患いは少しは減るのではないかと思いますね。

わたしたちの今日一日あるいはこの一週間ということも、すべて神様の御手の中にある一週間ですから、時間も全部神の元にあるわけですから、その神様に感謝しながら一時一時を神様にお返しする気持ちで日々の生活を生きるならば、わたしたちの心にもっと平安な気持ちと、喜びの気持ちが湧いてくるのではないかと思います。

自分が嫌な人も好きな人も、みんな神ものです。わたしたちは選り好みがあるから、この人嫌いな人好きな人と言っているわけですけれども、でも嫌いな人も好きな人も全部神様のものですから。

インターネットの記事を読んでいると、外国人を馬鹿にする、韓国とか中国とかを下に見る意見とかを時々目にします。本当に馬鹿馬鹿しい。みんな神様のものですよ。何人だろうと。民族が違おうと国が違おうとみんな神様のもの、子供じゃないですか。それをわざわざ軽蔑したりなんとかかんとか。本当に馬鹿げている。そういうことをすればするほど、わたしたちの心が狭くなっていって、憎しみとか無関心とかですね。神様から来てないものにとらわれていくわけですけれど。

わたしたちはすべてが神様のものであって、全てをただ神様にお返しするように、わたしたちは歩むしかないわけです。そのお返しするというときに、感謝の気持ちで誠実な心で、お返しできるかどうかということだけだと思いますね。ど自分のものだと執着したりしている時に、かえって苦しみや、自分のお金が減るとか減らないとかにとらわれているだけならば本当に残念な気がします。どうせ全てのものが神様のもので、神の中でわたしたちは喜びと感謝のうちに歩むことができる。その全てをお返しするということが、わたしたちの日々の生活の一番心がけなければならないことでしょう。

そして先ほども言いましたけれど、遅かれ早かれわたしたちは死を迎える時に、自分の命そのものも神様にお返しするわけですよね。その時にも感謝してお返しできたら、喜びをもってありがとうの気持ちでお返しできる、そういう一生を、人生を送るならば、これが一番の幸せじゃないかなと思いますね。

そのような心でわたしたちが一週間歩めるように。聖イグナチオのお祈りで、自分を捧げる祈り、というのがあるんです。まさしく全ては神様からいただいたから、全てを神様にお返しするという、そういうお祈りです。

それを唱えますから、このような心で歩めるように過ごしていきたいと思います。

 

自分を捧げる祈り

 

主よ、

わたしの自由をあなたにささげます。

わたしの記憶、知恵、意志を

みな受け入れてください。

わたしのものはすべて、

あなたからのものです。

今、すべてをあなたにささげ、

み旨に委ねます。

わたしに、あなたの愛と恵みを

与えてください。

わたしはそれだけで満たされます。

それ以上何も望みません。

 

聖イグナチオ・デ・ロヨラ

 

第一朗読  イザヤ書 45:1、4-6
主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。
わたしの僕ヤコブのためにわたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたがあなたは知らなかった。
わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。
日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 1:1-5b
パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです十