カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

11-22 どんな結婚も秘蹟として 神の御手にある

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

     youtu.be

マタイによる福音書 25:31-46
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

  今日は11月22日なんですが、日本では「いい夫婦の日」になっていて、単なる語呂合わせではあるんでしょうけれど、たまたま今年は「いい夫婦の日」に結婚感謝ミサをささげるというのも、ふさわしい日になったのではないかと思います。

そしてまたカトリックの典礼では「王であるキリスト」といって、年間主日の最後の祝日になります。来週は待降節の日曜日になる。それに合わせてマタイの福音書の25章、有名なイエス様のたとえ話が朗読されました。

このお話を読んで大事な点はいくつかありますけれども、一つはこの右側にいる人々。この人々は小さな人々や、困ってる人に関わったというか、関心を持って何かをした人々が評価されている。逆にこの左側にいる人々は何もしなかった。小さな人や困っている人に何もしなかったということで、神様から評価されていないということですね。これをみる時に夫婦の関係というか、それも大切なことじゃないかなと思います。あたりまえですけれども、関心と関わりを持って、二人で歩んでいるかどうか。それも基本的なことじゃないかなと思います。

逆にこの左側にいる人々のように、一緒に暮らしながら、全く関わりがないというか、無関心というか、そうなってしまうのは確かに一つの悲劇であると言えるでしょう。神父ですから、いろんな人からいろんな相談とかを受けて、その二人が関われなくなってしまっている、様々なことの積み重ねの中で、話しが出来なくなったとか、関わることができなくなってしまうという。そういう積み重ねの中で、難しくなっているということも現実としてあるように思います。できればいつでもお互いに、関わり合いを大事にできるかどうかということですね。

結婚講座も担当していて、講座の中で二人で話し合ったことを、家に帰っても二人でいろいろ、ああでもない、こうでもないとか色々話してますと聞くと、やっぱり嬉しい気持ちがします。夫婦で何かあることを分かち合ったり、語り合ったりできる。たとえば教会でご奉仕されている方々で、何かのふとした雑談の時に、あるテーマについて、家に帰って奥さんと、あるいは旦那さんと、こういうお話しをしましたという話しをチラッと聞くと、夫婦でも様々な出来事を二人で分かち合ったり、話し合ったりされているんだなと、内容はともかく、二人で喋っていることに感銘を受けたりします。

いくつになってもカップルによって違いますけれども、関わり合いを、関心を持ちながら、お互いのことを思いやったり、分かち合ったり話しができる。それが一番大切なことではないかと思います。

更にいうならば、今日の福音書はそれだけではなくて「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」困っている人や苦しんでいる人に、何かをするっていうことは、困っている人を助けるだけじゃなしに、その中におられるイエス様を助けることなんだということなんです。これは本当にキリスト教の偉大な神秘の一つだと思っています。

たぶんそれは夫婦の中でもそうだと思いますが、どちらかが困ったり悩んだり、行き詰まったりとか、いろんなことがあると思いますが、それで心配して片方の人が、何かをしようと思ったりされたりすると思いますが、でもそこにイエス様がおられる。あるいはその中に、イエス様を見出す。そこに神様の働きを見出していけるかどうかということが信仰者としてもっと問われるというか、もっと深めることができる大きなポイントではないかと思います。

先ほども言いましたように、わたしは結婚講座も担当していて、加えて離婚をして、再婚される方の場合、無効宣言というのをとらなきゃならないので、その担当司祭もやっていて、難しくなったカップルの話しも色々聞くんですが、でも根本的な考えは何かといったら、神様が結びあわせてくださった、教会で結婚するということは。わたしたちの人間的な思いや意図を越えて、神様がその二人を結びつけてくださったという。二人の関わりに神様の結びつきという、わたしたちからはちょっと言い出しにくいものではありますが、神様の神秘的な結びつき、あるいは働きがこの夫婦の中にあるという、その大きな前提の中に、わたしたちの結婚生活や家庭生活があるということなんですね。それをわたしたちが少しでも見出すというか、それを感じることが出来るならば、夫婦の間にある喜びにしろ悲しみにしろ、単なる人間的な悲しみや喜びを越えた、何か神様との関わりを深めていく大きなきっかけとして、この与えられているのではないかということなんですね。

そして夫婦の関わりは、祈りにつながっていかなきゃならないというか、繋がっていくしかないという気がします。それは今日のように感謝の祈りでもあるし、苦しみを乗り越えなきゃならない、心からの願いを捧げていく祈りになるかもしれないですけれども、そのようなことを強く感じます。

だからいろんなカップルをみて思うんですけれども、うまくいってるカップルもあれば、あまりうまくいってないカップル、非常に難しいカップルも様々ですが。でもわたしはどれがいいとか悪いとか、どれが成功した結婚で、どれが失敗した結婚とか、全く言えないっていうかですね。そこに神様の恵みを汲むことができるならば、その結婚は秘蹟として、神の御手の中にある。その恵みをわたしたちは今日も明日も、共に歩んでいけるものだと思います。

教会では御葬儀もいっぱいやっていて、どんなに仲の良い夫婦であったとしても、いずれどちらかが先に天に召されるわけですから、大きな悲しみも受け止めていかなければならない。でもその全てに神の御手を見出していけるからこそ、わたしたちは感謝と信頼の内に、生涯歩んでいけるのではないかと思います。

今日は結婚25周年と50周年の区切りの方の感謝ミサですけれども、本当にこの方々が、その方々だけではなしに、結婚を望んでいる、今、歩んでいる、難しさを抱えている方々全てに神様の導き、神の御旨を見出して神様に従っていく、恵みを分かち合っていく。そのような喜びが、恵みが与えられるように、心を合わせて祈りをささげたいと思います+

 

第一朗読  エゼキエル書 34:11-12、15-17
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:20-26、28
(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです+

 

 

 

2020年11月22日(日) 王であるキリスト〈白〉A年 

カトリック麹町教会 主聖堂 於 イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記