カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210613 種を蒔き 実を結び 命を繋ぐ

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マルコによる福音書 4:26-34
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

今日はマルコの福音書の中にある神の国のたとえです。それを植物の成長にたとえているということです。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」そして「そしてその穂には豊かな実ができる」生命のエネルギーというのは本当にその通りだなと、当たり前の事をイエス様がおっしゃっています。人間の力関係なしに植物、あるいは動物もそうですが、生命のエネルギーというものがあって、自然と成長していくということです。特に今は春から夏にかけて植物の成長がはっきり見られる時と言えるでしょう。教会の中には植木があって、すごく伸びるんです。ちょうど先週刈り込みしたところで、植木が綺麗に剪定されています。ほっといたらどんどん伸びてしまいます。当たり前ですけれども。そのエネルギーの強さということは感じられます。ちなみに教会に公式 Twitter とInstaがあるんですが、昨日と一昨日の写真が草ボーボーの植木が写っているんです。今日のシーンと全く違います。通路にまで出て歩きにくいぐらい出て、それくらいエネルギーがあるわけですけれど。そのようなものに神の国をたとえているということです。
芝生も今、刈り込んだところですけれど、あっという間に伸びます。だいたい勢いが強いのは、どちらかというと人間の目から見て雑草といわれるもののほうがずっと勢いが強い。人間にとって実がなるものとか花を鑑賞できるものは雑草に比べたらずっと弱いです。だから神の国も植物のように成長しますが、神の国じゃないこの世のものというか悪霊はもっと早く成長するというか。あっという間に悪の力がはびこってしまいます。神の国のはびこりよりももっと強い雑草を見ていてつくづくそう思います。
テレビでよく犯罪のニュースがありますがどこで勉強したんだかと思います。学校で犯罪なんか全然習わないのに、いつのまにか誰かに習って、盗み殺人強盗詐欺とか、習ってないことを勝手に人間が覚えてそれをやるわけですから、やはり神の国の自然の成長よりも悪の力の成長の方がずっと早いので、やはり私たちは手入れをしなければならない。それが成長することを注意深く見守るような気持ちがなければ、あっという間に自分の心の中の庭園は雑草で覆われてしまう可能性も非常に強いと思います。だからわたしたちは神の国の実りを結ぶ。そのような草や食物を、あるいは木を私たちの生活の中で、あるいは私たちの人との関わりの中で丁寧に育てていく。育てるのは神様だから人間が手入れをする。やはり雑草が生えてきたら根っこから抜いてみないとまたすぐ生えてきて、自分の心の中をそういうものが占めてしまったり、そういうものに占領されてしまうという事は度々あることでしょう。
私達が本当に神様のためと、神様が育てたいと思っている草や木や野菜や樹木を注意深く見守る気持ちが大事でしょう。育ててくださるのは神様ですから、それに私たちがどれだけ協力できるか。それをしっかり心がけて歩みたいと思います。そして植物の、特に人間が育てるものの最終目標は、収穫のために実を結ぶということです。「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」だから私たちが育てている。あるいはわたしたちが生きていく神の国の中で実りをもたらす生き方。自分の信仰生活、自分の社会生活の中でどのような実りを結んでいくかということを、それを私たちはしっかり意識していった方がいいのではないかと思います。
普通の植物はどういう実りを結ぶために生存しているのか。これは生命の神秘だと思います。植物にしろ動物にしろ若い時はどんどん盛んに成長していくわけですが、人生の後半からは衰えていくわけです。老いのない生命はないわけですけれども、老いていく中でこそ実りを結ぶわけです。勢いよく成長している時には実りはないわけで、見た目の成長が終わって、木なり草が老いていくところに、いわゆる人生の秋に実りというものが結ばれる。その実りは何のためかというと、子孫を残すためなんです。自分は衰えていってもその後に続いていくもの。動物でいえば子供とか孫とかを残していくために、実りを結んでいって本人は死んでいくわけですから。生命の繋がりということで実りということが私たちにあるわけです。
私たちの信仰生活の実りというならば自分自身のためというよりは、次の世代に対する責任があるということです。他の人の信仰の成長のために自分の実りが必要ということです。自分のための実りではなくて、他者のための実りということです。一番典型的なのは子育てだと思います。自分のためではないわけですから。子供の成長に親は全力をかけていく。それがいわば生命の実りになっていくわけです。だから人は死んでいきますけれども、次の世代が生まれてくる。植物も動物も全部そうで命の伝承というところに、実りの目的があるわけだから、私たちが信仰の実りを考えるならば、伝承されていく恵みを私達が紡いでいけるかどうか、神の恵みの中で、ということです。
信仰生活の最初は自分の信仰を成長させるために、いわば自分のために育てなければならないですけれども、信仰生活の後半は自分のためではないです。実りは他者の中で実って、本当の実りになるものが信仰生活だということです。単独の信仰生活は意味がないんです。信仰生活そのものが伝承されていく。他のものを育てていくものになってこそ、自分の実りではなくて周りの人の実りになった時に、神の国の成長ということがあるということだと思います。
どの動物も植物も自分のために存在しているものはただ一つもない。やはりそれは次の世代に向かって命というものが、そこに育ちながら与えながらバトンタッチされて生命の継承がある。神の国も全く同じだと思います。人々にそれが広がって自分から他の人に実りが何らかの形でもたらされる中でこそ、神の国の実りがあるといえるのではないか。そのような実りを私たちは少しでも結べるように、この一週間を歩んでいきたいと思います。
もちろん実りを結ぶためには手入れが必要で、肥料も必要でしょうし、適度な温度とか水分とか水やりも必要でしょうし、ちょっと水をやらないだけで枯れてしまいます。それは自分の信仰も同じでしょう。いろいろ育てていく気持ちがあるからこそ神の恵みが広がる。それを他者に分かち合っていけるように、そこに本当の実りが結ぶように、わたしたちが少しでも歩んでいけるように、神様と心を合わせ、日々の生活を歩んで行きたいと思います。

 

第一朗読  エゼキエル書 17:22-24
主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、実行する。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 5:6-10
(皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。)それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。