カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210711 重荷を捨てて 今日を身軽な心で 神と共に歩む

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マルコによる福音書 6:7-13
(そのとき、イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

 今日の福音書は、マルコの6章、十二人の弟子達を宣教の旅に遣わすというところです。その際大事なのは、なるべく何も持っていかないようにということです。『パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」』なるべく物を持たないで行きなさいということをイエス様はおっしゃいます。
私たちが旅行する上でもそうでしょう。旅慣れている人ほど荷物が少ないというふうに思います。実際旅をする時には身軽というか、所持品が少ない方が良いと言えるでしょう。ただ持たないというよりは、前向きに歩んでいくための身軽さではないかと思います。だから持っていっていいものは、杖一本と履物を履くということです。だから前を向いて歩いて行く、そういうことはむしろ勧めているような感じで、物が多い人もいれば少ない人もいるでしょう。単に物が多いか少ないかというよりは前に向かって歩んでいく、そのための気軽さ、シンプルなものだということですから、目標がはっきりしている必要性があるでしょう。その場合はイエス様を述べ伝えたり、病人を癒やしたりするためにこそ、身軽にいかなければならないということです。これは私たちにも大事な事だと思います。
身軽さという事は物だけの問題ではなくて、心の自由さというんですか、心の中にとらわれがない事が最も大事だということだと思います。
時々ゴミ屋敷に住んでいるような人がテレビとかに出てきます。この間テレビのニュースか何かで見たら、一回片付けても、またどこからかゴミを持ってきて、また積み上げている人とか、そういうのを見てると、ゴミというか物は、その人の心の安定なんだろうと思います。だから一種心が病んでいる。ゴミをためることによって、一つの安心感をもたらしている。ゴミをためることによって、何か心に安心感をもたらしているわけですから、それはそれで責められないかなと思っています。
でもそういう人は閉じこもって誰とも会わないし、イエス様の積極的な愛の行いからは、やはりほど遠いのではないかと思います。できれば私たちもとらわれのない心で歩んでいけるかどうか、それが大事なことではないかと思います。
個人的に私は物の片付けが大好きな方で、特に気に入ってるのが、「人生がときめく片付けの魔法」近藤麻理恵著で、通称こんまりと呼ばれていて、今は国内ではなくアメリカで活躍されて、片付けのプロフェッショナルみたいな感じの人なんです。片付け方も色々書いてあるんですけれど、考え方が面白くて好きなんです。
何で人間は物を片付けられないかといったら、結局二つだけの問題だというんです。心の問題として、それは過去にとらわれているか、未来を心配し過ぎるか。過去にとらわれるというのは、過去の思い出の品を手放せないか、あるいは未来に向かって、万が一使うことがあるのではないかということで物を置く。
結局物を片付けられないのは、過去にとらわれているか、未来に心配が強いか。その二つだというんです。二つを手放せば物が片付けられる。それは物だけではなくて人間の心も全く同じなんです。こんまりの本を読んでいて思うのは心の整理もほとんど同じ。つまり私たちが自由な心で前を向いて歩いていけないことがあるとしたら、過去に縛られているか、未来の不安ににとらわれているかということだと思います。過去のとらわれをどうおけるかということは大事なことだと思います。
今日のお話しの中で、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」ごく簡単にいうと、私たちが歩んで行く時に、過去のとらわれを置いて行けということです。弟子たちを迎えいれない人もいるわけで、なんであいつはこうなのか、ああなのか、なんで自分たちは受けいれられなかったとか、批判したり仲たがいしたりとか。そういう事をずっと引きずっていたって何の意味があるのかということです。だから何かトラブルとか、自分にうまくいかないことがあるとしたら、「足の裏の埃を払い落とし」て、その事はスパッと忘れて切り離して前に向いて行けという、そういうことだと思います。過去へのとらわれをずるずる引きずれば引きずるほど、今を生きることに対して心の重荷です。アイツとはもう絶対に会わないとか、教会の中でも色々そうでしょう。できればできるほど重荷を背負って、身軽に前に向かって神様と共に歩んでいけない。だから過去のことはスッパリ、足の裏の埃を払い落として、スパッと忘れて切り離して、今とこれからに向かって歩む。その心の自由さを私たちが持てばどれほど楽かということがあるでしょう。
時々未来の心配というのはもちろんありますけれども。私は実際に巡礼したことがあるです。修練者の時に。その時の巡礼の道は殉教者二十六聖人。日本で最初に殉教者が、京都から長崎まで、晒し旅行と言うか、連れられていって。京都で逮捕されて長崎まで連行される。それに合わせて京都から長崎まで徒歩巡礼するというのがカトリック教会で一時流行っていたことがあって、私の代が巡礼した最後なんです。広島から長崎まで徒歩巡礼したことがあるんです。ここに書いてあるとおり、わりと身軽な形ですが、ごはんは托鉢で、わりとシビアです。徒歩でニ週間くらいかかったか。とにかくごはんを乞うのが厳しかったですが、とにかく歩くのが厳しかったです。山口県ぐらいだったか、くねくね曲がっていたらいいんですけれど、真っ直ぐな道がずっと続いていると憂鬱になるんです。あそこまで歩かなければならないのかという。リュックで背負っていて、5キロから10キロ。長い長い道をあそこまで行くのかと思ったら、それだけで気分が滅入るんですけれど。でも結局一歩一歩なんです。つまり一歩一歩噛み締めて歩いて行けば、1時間から3時間ぐらいで到達して、あんまり先の事ばかり考えると、やはり今に重荷が来てしまう。いらない重荷を背負ってしまう。先々のことを考えて。今だったらコロナがいつ終わるかとか、いつ終わるかわからない。そういうことばっかり考えていると重荷を背負ってしまうだけで、私たちは気楽な心というか、過去と未来において、やはり今を大切に。いらない余分な重荷とか心配をとらわれを捨てて、今日一日を身軽な心で歩むことが出来たら、私たちは神様に喜びや希望をもっと分かち合って歩いていくことができる。
何も持たないで弟子達を出発させた、それはイエス様の心を、私たちの心に入れましょう。
今日も御聖体をいただいて帰りますけれども、いらないものは聖堂に置いていって構わないです。心のとらわれとか心配とか。気軽な気持ちで神様と共に歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読  アモス書 7:12-15
(その日、ベテルの祭司)アマツヤはアモスに言った。
「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-14
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
《キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。》